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分類することの暴力

映画『アメリカン・アニマルズ』を観た。最高。

物語は実際に起こった事件に取材していて、事件の当事者も登場する半分ドキュメンタリー・半分フィクションなのだが、退屈な日々を持て余す大学生たちの青春映画かと思えば、打って変わって痛快犯罪ものへとすり替わり、終盤は彼らの心情に迫るサイコスリラーの趣きを見せる。最高。こういうジャンルに縛られない、既成概念の枠外にある創作物が大好き。

逆に言うと簡単に分類されるものはどちらかというと苦手だ。というか、分類すること自体にある種の嫌悪を感じる。

とはいえ美術史なんていう学問に携わっているので、作品を分析してあるカテゴリーに分類する作業からは逃れられない。これは古典主義、これはマニエリスム、これはレオナルド派。でもやっぱり面白いと感じるのはそうした分類をすり抜ける、カテゴリーの「隙間」にあるような作品なのだ。ネーデルラントの画家なのに作品はイタリア風とか、あるいは、絵画なのに一部立体になっているとか、建築に見立てられた書物とか。

とくに創作物中の登場人物に関連づけられる「属性」にはひときわ嫌気がさしている。美少女、ギャル、ヤンキー、DQN、お嬢様、オタク、とかとか。べつにそういうキャラクターがいることは気にならないんだけど、その一言だけでせっかくの大事なキャラを説明させていいのかともったいなく感じてしまう。

最近あまり見なくなったけど、ツイッターで漫画を投稿している人が、「ギャルとお嬢様が仲良くなる漫画」みたいな説明つけてるのもモヤリとしていた。そんなに魅力的なキャラを、「ギャル」というたった3文字であらわしてしまっていいの? いや本人的にはいいのかもしれんが…。あと『女王陛下のお気に入り』を「クレイジーサイコ百合」と説明している人が多いのもビックリしてしまった。この映画に登場する女性たちの鬼気迫る関係性は、もっとことばを割いて表現してほしかったナ〜(文字制限が厳しいツイッターで感想を漁るのが悪い)。

思えば、分類することに疑問を持ち始めたのは、まだ京都にいた頃、韓国の劇作家ユン・ハンソル氏の作品『国家』の制作に関わったときだったように思う。わたしはユンさんと役者さんのあいだのコミュニケーションを補助する通訳としてこれに携わった。

制作の現場で、ユンさんは役者さんたちそれぞれの個人的な話を聞き出していた。子供の頃の思い出、いちばん好きな本、いま抱えている悩み、などなど。こうしたディスカッションで出た話題をもとに、本番のパフォーマンスでは彼らそれぞれがみずからの人生を語る。しかし役者さんたちはそれを同時に語り、音声としてはざわざわとしたしゃべり声の集積になってしまうので、聞いている観客は最初彼らの話を聞き分けて理解することができない。彼らが別々に語り始めて、はじめて観客は声のかたまりからそれぞれの物語を取り出して、それらが唯一無二のものであると認識できるのだ。

わたしたちは皆、別様の人生を歩んでいる。学校も仕事も恋愛も結婚も生き方も死に方も、一人ひとりがユニークな存在だ。しかし、国は「国民のスタンダードな人生の歩み方」を設定し、それに沿って社会システムを構築する。それはつまり、人をある種のカテゴリーに分類してしまうことにほかならない。

たとえば14歳の女の子なら、お父さんとお母さんがいる家から毎日中学校に通っていて、クラスの男の子が気になりつつ、高校受験について悩み始めてるって具合でしょ、というような。しかし当然ながら、その内実は必ずしもそうではない。両親が離婚してて家にいるのはお父さんだけとか、エスカレーター校だから高校受験は心配ないとか。その程度ならいいのだけど、家庭が上手くいってなくて学校に全然行ってないとか、同性愛者で男の子には興味がないとか、ちょっと込み入ってくると、システムに組み入れられないということがある。要は国から無視される。そうした一般的な分類からはみ出す部分は、なかったことにされる。

劇作品『国家』がテーマにしていたのは、およそこのようなことだった。国のシステムとは、人の個々の事情を切り捨てて、ある一つのタイプに押し込めるものだ、と。それが作品によってちゃんと表現として昇華されていたかどうかはちょっと疑問の余地がある(もっと時間をかけられたらよりよかったと思う)。でも、本番後にエゴサして「自分語りばっかり」というような感想を目にしたときは落胆してしまった。カテゴリーからはみ出す部分は、所詮「自分語り」なのか。

話がとっ散らかってしまったけど、一見なんなのか分からないもの、既存のカテゴリーに当てはまらないもの、スタンダードからはみ出すもの、そういったものを無理やり分類して安心するのではなく、そのまま受け入れる。そういうことを心がけていきたいなぁ、少しずつでも。

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美術と政治の深い関係──映画『ヒトラーvsピカソ 奪われた名画のゆくえ』

私がまだ学部2年生で、西洋美術史専攻必修科目である通史の講義に出ていたとき、先生が古典古代建築の三つのオーダーを説明しながら、次のようなことを言った。

「こういう建築様式が古代ギリシャ・ローマから来ていて、古典の伝統になっていくということを知っていると、大銀行の建物がなぜこういう古い様式で建てられているのかわかるでしょ。銀行側としては、すぐ潰れない、永続的で安定した印象を与えたいから、伝統的な様式を選択するわけ」

ふだん何気なく享受している建築、絵画、彫刻といった美術作品には、ただ見て楽しいオブジェとして以上の機能がしばしば期待されている。個人的には、そうしたイメージの読み解き方を身につけることこそ、西洋美術史を学ぶ意義と考えているのだけど、この読解の技術を学ぶと、美術とはかくも恐ろしい劇薬であることが自ずと見えてくるだろう。

その劇薬が極端な効果を発揮したのが、第二次大戦中のナチスの芸術政策。映画『ヒトラーvsピカソ』は、このナチスによる文化財押収とその余波を追う内容だ。イタリア、フランス、ドイツの合作ドキュメンタリーで、ナチスドイツがどのようにして占領地のユダヤ人コレクターたちの財産を不当に押収したか、またその返却がいかに遅々として進んでいないかが、歴史家や活動家、そして元所有者の子孫たちの口によって語られる。

詳しい内容は映画本編を観ていただくとして、ここでは全体的な感想をば。

これは予告編。

「VS」というほど戦ってない

タイトルをそのまま文字通り受け止めると、ヒトラーとピカソがどんなバトルを繰り広げるのか〜!? という感じが若干あるが、べつにこの二人は直接お互いを相手取ってバトルするわけではない(当然)。題に掲げられた「ピカソ」は芸術に携わる人々をあらわす比喩となっているのだ。

だいたい、映画に登場する芸術家/コレクター/画商側はそれほどナチスと戦わない。もちろん当時も反体制派の芸術家はいただろうし、反ナチの声を挙げた勇気ある人もいただろう。財産押収に最後まで抵抗する画商も紹介される。しかしこの映画がもっとも大きく取り上げるのは彼らではない。

むしろこの映画がフォーカスしているのは、体制に協力した美術関係者たちである。それは積極的に協力した者も、結果的にそうなってしまった者も含む。芸術家、美術史家、画商、批評家、コレクター。そういった人々もまた、ナチスの芸術政策や文化財押収についての責任からは免れえないということを物語っているのだ。

たとえば、ユダヤの血が入っているけれど、己の美術の知識を活かしてナチスの美術作品収集の助言者となった人。あるいはまた、表現主義的な作品に退廃芸術の烙印を押しながら、自分の懐におさめていた人。こうした人々の暗躍が、約60万もの美術作品が元の所有者から強奪されるという結果をもたらしたのだ。

このような人々を、芸術に対する裏切りだと軽々しく断罪することはできない。起きたことに対する責任はあるだろうけれども、もし協力を拒否すれば彼らに未来はないのだ。彼らと同じ立場になれば、ほとんどの人が同じような行動を取るだろう。

美術と政治の切っても切れない関係

パンフでは「美術に政治家が口を出すとろくなことにならない」などと言ってる人がいるが、歴史をひもとけば美術はつねに政治とともにあった。昔の王侯貴族が美術品を集めるのは、単に彼らが美術好きだからだけではない。美術作品を所有することは権力表象の一形態なのだ。

かつてルネサンス期の貴族や教皇が、作品を注文するのみならず、古代ギリシャ・ローマの美術作品を競ってコレクションしたのは、それを所有することが権力の誇示に直結したからである。ルネサンスが終わってバロックの時代になれば、彼らはルネサンス期の巨匠の作品を買い集めることに熱中するだろう。もう新たに生産されることのないモノを所有し、展示することは、強力なパワーをもつのである。

また、作品の政治性は作者の思惑とは無関係に発展することもある。フィレンツェに行けば、ミケランジェロの《ダヴィデ》を観ることになるだろう。もともとは大聖堂を装飾するために注文されたのに、時代の流れとともに共和制の象徴に変身し、さらにフィレンツェ政府が共和制から君主制になるときにはメディチ家のシンボルにされた、きわめて政治的な作品である。

美術作品の押収もめずらしいことではない。古代ギリシャの遺物を持ち帰った大英博物館や、ナポレオンの略奪品を収めるルーヴル美術館の話が有名だが、もっと古い例を挙げれば、フィレンツェのバルジェッロ美術館には、トスカーナ大公コジモ一世が押収した彫刻コレクションが並ぶ。必ずしも敵から奪ったものではなく、自らの側近さえも裏切りの疑惑があればすぐに処刑し、その所有物のなかからよい作品を奪って自分のものにした結果が、この豊かな彫刻コレクションなのだ。同時代人にとって、これらの作品は「大公に逆らうな」というメッセージも持ちえただろう。

また、去年の冬に国立西洋美術館で開催された「ルーベンス展」を見に行った人は、ルーベンスが画家であると同時に外交官でもあったことを覚えていると思う。彼は「外国の貴人のために絵画を制作する」という名目のもとヨーロッパを動き回ることができたし、イングランドとスペインのあいだに和平を結ぶ際には、彼の画家としての技量と名声がおおいに役立った。

例を挙げればキリがないが、美術と政治は切っても切れない関係にある。それは16世紀でも20世紀でも同じことだ。ナチスがどのように美術作品を利用したか、それは本編を観て確かめてほしいのだけど、少しだけ個人的に面白かったところを紹介してみたい。

イデオロギーと趣味

ナチスが進めた、前衛的な美術動向を「退廃芸術」と定め文明の堕落と位置づけたことは有名だし、この映画でもその話題は何度も出てくる。

面白いのは、ナチスの幹部がときに「退廃芸術」の烙印を押されたはずの美術作品を個人的に入手して保管していたことだ。なんだ、好きなんじゃんか。

映画中でも解説されるが、政治的な手段で支配層となったナチスはもとはブルジョワにすぎないので、まずは権威づけのためにいにしえの王侯貴族のふるまいを真似ようとする。かくしてゲーリングは森の中に狩猟のための館を建てて絵画で飾り立て、国内外のVIPを呼んではもてなすことになるのだ。そうなると、彼らが集める美術作品も、かつて王侯貴族が好んだような様式のものとなるわけだ。

もちろん、表現主義的作品に比べれば古典主義的作品のほうが理性や秩序を重んじるし、そうした要素が西洋白人の優位を謳ったナチスにとってイデオロギー的にも都合がよいという理由もあっただろう。いずれにせよ、古典主義的な作品は個人の趣味というよりはむしろ、イデオロギーに合致するから重宝されている。

その結果、本来アヴァンギャルドな美術を好んだナチス幹部は、表向きそうした美術を退廃と断罪しながら、プライベートでは自邸に堂々と飾る、といった現象が発生したのだ。

しかし、こうしたことはナチスのみに起こったわけではないだろう。16世紀後半のミラノの画家たちがこぞってレオナルドを模倣したり、同時期のフィレンツェの画家が同じようにミケランジェロを模倣したりしたように、美術を享受するほうもまた、パトロンならば過去の大パトロンを、コレクターならば過去の大コレクターを真似たのである。

たとえば、ルネサンス期ミラノにレオーニという彫刻家がいるが、彼は当時の芸術家としては破格の富を築いて、自ら美術作品をコレクションしていた。いま彼の財産目録を見てみると、彼が神聖ローマ皇帝のコレクションを模倣しようと頑張っていたのが明らかである。レオーニは一介の彫刻家にすぎないので、貴族階級には上がれっこないのだが、ふるまいだけでも近づこうとした彼の涙ぐましい努力が垣間見える。けれども、彼は本当に皇帝が好むような美術を好んでいたのか?

作品を集めることそれ自体に政治的な意味が宿ることを踏まえれば、単純に「は〜こういう美術が好きだったんやねぇ〜」という感想だけでは終わらないはずだ。

過去の出来事とあなどるなかれ

とはいえ、昔の話でしょ、と思う人もいるかもしれない。映画では、強奪された作品の返却作業はいまも進行中であることが示されるけど、それだって遠いヨーロッパの話でしょ、と。しかし、こうした美術と政治の話を他人事のように受け止めるのは、正直おめでたいとしか言いようがない。

映画中、ナチスが理想とした美術作品を取り上げた「大ドイツ芸術展」では、田舎の風景や農民たち、母子を描いた作品が多く展示されたことが解説される。去年の冬にBunkamuraで開催されていた「ロマンティック・ロシア展」のことを思い出してほしい。展示作品に似たものを感じないだろうか。

上に権力表象の一形態として美術を所有することがあると書いたけども、バンクシー(?)のネズミ絵を都が展示するとはどういうことなのか、立ち止まって考えてみてほしい。誰が描いたのかは分からないし、落書きなので押収とは言えないかもしれないけれど、本来の所有者/作者の意図しない形で政治利用されているところは同じだ。

おりしも現政権が天野喜孝と組んで新ウェブサイトを立ち上げたところ。美術と政治がどのように絡み合ってきたか知るには、うってつけのタイミングなのではないだろうか。

いっしょに観たい関連映画

ナチスの芸術政策、ひいては美術と政治をテーマにした映画は『ヒトラーvsピカソ』だけではない。この機会にいろいろ観てみよう。

カーティス監督『黄金のアデーレ──名画の帰還』(2015年・英米合作)

ナチスに押収されたクリムトの絵画《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ》の所有権をめぐり、国を提訴した女性の奮闘を描く。とてもよい映画。同作品は現在ニューヨークのノイエ・ギャラリーにあるよ。

ソクーロフ監督『フランコフォニア──ルーヴルの記憶』(2015年・英仏蘭合作)

歴史に翻弄されてきたルーヴル美術館の所蔵品の記憶を幻想的にたどる。フランスの美術管理を任されたナチス高官メッテルニヒと、作品を疎開させようとした当時のルーヴル館長ジョジャールのやりとりが取り上げられているよ。とてもよい映画。

クルーニー監督『ミケランジェロ・プロジェクト』(2014年・米)

第二次大戦時、ヨーロッパの美術作品をナチスの手から守るため、ルーズベルト大統領の命で組織された「モニュメンツ・メン」の活躍を描く。実は未見。『ヒトラーvsピカソ』では、モニュメンツ・メンが集めた情報をもとに爆撃する場所を決めてたって言ってたね。

ワイダ監督『残像』(2016年・ポーランド)

これはナチスの話ではなくて、社会主義政権下のポーランドが舞台。全体主義による圧政のもと、抵抗もむなしく迫害され潰されてゆく芸術家の姿を描く。強い政治権力に抗ったらどうなってしまうのか、容赦なく救われない物語。

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15世紀の羊毛職人とフィレンツェを歩く! めちゃくちゃ楽しい歴史散歩アプリ Hidden Florence

フィレンツェに来ています。数年前にダウンロードした、フィレンツェに来たらぜひとも使おう! とずっと思っていたアプリがあって、でも来るたびに忘れるので悔しい思いをしていたのだけど、今回はしっかり覚えてた。やったね。

というわけで、アプリ Hidden Florence を紹介するぞ。無料だぞ。

Hidden Florence
Hidden Florence
開発元: University of Exeter
無料

ざっくり言ってしまうと、ルネサンス期フィレンツェの様子が体験できるオーディオガイドである。ときは1490年。フィレンツェで羊毛職人として暮らすジョヴァンニ・ディ・マルコがアプリ利用者のガイドとなり、都市生活のことや最近あった出来事などについて語ってくれるという内容だ。

英語とイタリア語しかないので日本人からしたら言語的ハードルはあるのだけど、「英語 or 伊語チョットワカルヨ」という方はぜひチャレンジしてみてほしい。

このアプリでは、利用者がマップに沿ってフィレンツェを歩きまわることが想定されていて、特定の地点に来ると、突如音楽が鳴りはじめ、その地区やモニュメントや建築等についてジョヴァンニが語り出す。実際の場所に立ち、通りを歩きながら、往時のようすを聞くことによって、王侯貴族や有力商人が主役なタイプの歴史書ではなかなか知ることのできない、15世紀フィレンツェの「普通の人」の生活がありありと再現される…という仕組みなのだ。

このジョヴァンニなる人物はじつは架空のキャラクターで、15世紀後半のフィレンツェにいたであろうような人物造形がなされている。まぁ細かいところまで作りこもうとすると、ガイド役のキャラクターはフィクショナルなほうが勝手がよいよね。

しかしジョヴァンニの肖像、完全にマザッチョ。

ルネサンス期フィレンツェの庶民の生活を覗く

さっそくマップを開いてみよう。現在はプレインストールされている「市街地コース」と、ダウンロードすれば利用できる「サンタンブロージョ地区コース」、二種類の散歩コースが楽しめる。開発者チームのブログを見ると、近々ほかのコースも足されるようだ。ちなみに、この古風な地図はステファノ・ボンシニョーリによる16世紀のフィレンツェ図に基づいている。道があまり変わっていなくてびっくり。

番号が書かれているところに行くとトークが始まるぞ!

「市街地コース」から行くべきだとは思ったが、ちょうどサンタンブロージョ教会に行く用事もあったので、「サンタンブロージョ地区コース」からやってみることにした。ジョヴァンニはこの辺りに住んでいる設定らしい。サンタンブロージョ教会はフィレンツェの東エリアにあって、建築家アルノルフォ・ディ・カンビオの図案によるといわれる市壁(1284年建設)の外側に位置していた。当時の感覚ではフィレンツェ郊外といった感じだろうか。

GPSをオンにしていれば、教会前の広場(地図上の①)に着くと自動的にジョヴァンニのトークが始まる。彼の語りを聞いていると、ファサードの端に埋め込まれている、3本の塔のマークが彫られた石の印に注意がうながされる。たしかにこれは言われないとなかなか注目しないかも…。

「教会前面の右端にある銘を探してみよう!」
サンタンブロージョ教会のファサード。この右端に…?
コレか…??(写真だと図案がよく見えない)

これは「チッタ・ロッサ(「赤い都市」の意)」というポテンツァをあらわすシンボルなのだそうな。ポテンツァとはこの地区の祭礼を運営する組織で、チッタ・ロッサは毎年5月に仮装行列を組んで地区を練り歩いたのだとか。その際にはチッタ・ロッサのメンバーのなかから一人「王」を演じる者を選出するのが特徴。一度ジョヴァンニも王様役をやったことがあるらしいよ!

このような、漠然と見ていると見逃してしまうような細部に、歴史があるものだなぁ…としみじみ感じさせられる。

学術的サポートもしっかり

だが、当時の人間からは見えないこともある。大局的な状況というのは、ある程度時間を経てからじゃないと可視化されないものだ。

そこで、ジョヴァンニの説明を聞き終えたあと、画面下部にあらわれる Discover More をタップしてみよう。歴史学の研究者による歴史的背景の解説が聞けるぞ!(解説は英語のみでイタリア語なし)なにを隠そうこのアプリ、英エクセター大学のプロジェクトとして開発されているのだ。その分野のトップクラスの研究者が関わっているので、情報源の信用度は高い。

この下にある Discover More をタップすると…
背景がカラー写真になり、研究者の解説が聞けるぞ!

解説によると、サンタンブロージョ周辺エリアは郊外ということもあり、比較的貧しい労働者階級の職人たちが集う場所だったらしい。こういった人々はたいていの場合「市民」にカウントされることもなく、政治に参加することも許されなかった。しかし、チッタ・ロッサのお祭りの日だけは、そのような人々から「王」が選出され、普段彼らを統治している人々の上に君臨する。いわゆる「さかさまの世界」が現前するのだ。

こうした行事は祝祭であるとともに、労働者階級のストレスや不満を解放するための一つの手段でもあったとか。1378年に起こった下層労働者の反乱「チョンピの乱」は、まさしくこのサンタンブロージョ周辺が主な舞台となったので、この辺りの労働者の蜂起はけっこう現実的なリスクとして認識されていたはず。彼らの鬱憤をうまく発散させてやることは、そういった政治的に重要な役割も帯びていた。

歩きながら解説を聞くのも楽しいが、もっと知りたい向きは公式サイトに飛んでみよう。メニューの Stories にはルネサンス期フィレンツェを生きた人々の物語がいっぱい詰め込まれていて、これを読むだけでもかなり楽しい。しかもばっちり参考文献もついているからうれしいね。

歩きながら使うときは気を付けて

フィレンツェを歩き回りながら使うアプリだとは言ったけど、べつにフィレンツェにいなくても、ジョヴァンニの語りも研究者の解説も聞ける。とりあえずオーディオだけ楽しむのもアリだ。教会のなかに入ると声の響き方が変わるとか、音響も凝っている。

ただ、歩きながら使うときはけっこう周囲に注意しないと危ないことになる。歩きスマホ状態になりがちなので、狭い道では知らないうちに往来の邪魔になってしまっていることも…。人や車の邪魔にならないところで落ち着いて解説を聞こう。ジョヴァンニに立ち止まって注意深く見るように指示されるところが、現在ではなんでもない普通の家の前なんてこともあるので、「立ち止まりにくいな…」みたいなこともあった。

一方で、自分ではなかなか行かないような通りを歩くことにもなり、かわいいお店やおいしそうなレストランを見つけたりもできてよい(あらゆる街歩きに言えることだが…)。サンタンブロージョの辺りはいまも職人が多いのか、ハンドメイドの洋服やアクセサリーのお店が多いように感じた。スカート買いました。

ごちゃごちゃ書いたけど、アプリの使い方については公式の動画を見るのがいちばん手っ取り早いかも。というわけで埋め込んどきますね。

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ブレラ絵画館はあなたを絵画の虜にする

ミラノの美術館といえばブレラ絵画館! 今回ミラノ初訪問だったので、ブレラ行くのもはじめてだったが、すっごくよい美術館で感動してしまった。

ブレラ絵画館はナポレオン占領時代につくられたので、イタリアでは比較的新しめの美術館と言えるが、「イタリアのルーヴル」となるべくつくられたこともあり、そのコレクションはピカイチだ。とくにヴェネトやロンバルディアの絵画作品が充実していて、ベッリーニやマンテーニャ、レオナルデスキたちの作品が目白押し。ベルナルディーノ・ルイーニがこんなに多作だとは知らんかった。

しかしここで書きたいのは持ってる作品群のよさについてではない。ブレラ、作品の見せ方がめちゃくちゃ上手い。こんなふうに展示されたら絵が大好きになっちゃうな〜と思わせる工夫がそこかしこにあって、ブレラ絵画館の中の人たちがいろんな方法で絵画に興味を持ってもらおうとしているのがひしひしと伝わってきた。以下ではその工夫の数々を紹介していくぞい。

キャプションの妙

館内に入るとまず美術館の成り立ちと立ち位置についての解説があるんだけど、そこでブレラでは作品のキャプションに力を入れていることが説明される。

それによると、ブレラ絵画館のキャプションは3種類。まずは一般的な美術館にあるような、作家の名前、作品主題、制作年代、メディア、来歴、作品解説などを記したキャプション。それに加え、ナウなヤングにも楽しめる解説や鑑賞指南が書かれたジュニア向けのキャプション。そして最後に、当該の作品に言及した美術史家、歴史家、小説家、詩人などなどのことばを紹介するキャプション。

たとえばこの15世紀フェッラーラの画家フランチェスコ・デル・コッサによる絵画には、作品情報を記した普通のパネルと、作家アリ・スミスによる小説『両方になる』からの一節を紹介するパネルが並置されている。

ちょっと硬めの線描が魅力のコッサ作品! これは《聖ペテロ》と《洗礼者聖ヨハネ》。
普通の解説キャプション。右に見切れているのはジュニア向けの解説だ。
『両方になる』からの引用を記述したキャプション。

『両方になる』はまさしくフランチェスコ・デル・コッサが主役の一人として登場する小説で、最近新潮社から邦訳も出た(とっても面白かったです)。絵を見ながらこの引用を読むことで、鑑賞者の想像力も刺激される。

もちろん全ての作品に複数のキャプションがついてくるわけではない。でも、絵画そのものにはピンと来なくても、あの作家が言及してる絵なのか〜と思えばまたちがった関心の持ち方ができる。ちょっと異なる切り口で作品についての興味を持たせる、上手いやり方だと思った。

触ってわかる再現度

15世紀以降の絵画作品は、現実世界を模倣する技術が格段に向上するので、いわゆる「リアル」な表現が出てくる。中世の趣を残す装飾豊かな絵画でも、聖人たちが身にまとう刺繍入りの織物、貴婦人たちのベルベットのドレス、その下から覗く絹のシャツ、まるで触れたときの手ざわりまで分かるようなリアルさだ。

15世紀ヴェネツィアの画家カルロ・クリヴェッリのこの作品なんか典型ですね。

とっても華やかなクリヴェッリ作品。

でも、金襴の織物とか深紅のベルベットとか、ほんとに触ったことってある? (ベルベットくらいはあるかもしれん)  いずれにせよ、本物の手ざわりを知らないのに、「手ざわりまでわかる〜」なんて言ってるのはナンセンスだ。

ハイ、では触ってみましょうね! あまり多くはないけど、何枚かの絵画には「画家が絵筆で再現したかったモノ」のサンプルが貼り付けられたパネルがあって、自由に触れてみることができる。

ベルベット生地のサンプル。ふっかふかやで!
金襴のサンプル。ちゃんと生地の解説もある。

ふかふかのベルベット生地を触ってみれば、クリヴェッリがどのようなテクスチャを再現しようと頑張っていたのか、より感覚的に理解できるだろう。金襴の織物も同じように触れるようになっているが、こちらは織り込まれた金糸がどのように光を反射して鈍く輝くのかを知るのにも役立つ。

これらを体験したうえでもう一度絵画を見てみれば、こうした絵画内のさりげなく実現されている再現表象が、どれほどの驚異であったかもよくわかるように思う。

関係ないけどこのクリヴェッリの絵、一部立体になってて面白い。しかしお前、絵筆で再現するのあきらめたんか?

聖ペテロのもつ鍵が立体だぞ!

お絵かきコーナー

さらに、とくに広い展示室では、ときどき特殊な形の椅子と画板が設置してあり、そこには画用紙と鉛筆が置いてある。やったー模写し放題だー!

突如現れるお絵かきコーナー。

ひとつ前の記事でも触れたが、なぞって描いてみることによって得られるものは多い。ただぼーっと見ているだけではなかなか気づかないところが可視化されるし、単純にひとつの作品を眺める時間が長くなるので、細かなところまでじっくり見られる。

なので、こうしたお絵かきコーナーは鑑賞者をひとつの作品の前にとどめ置く装置として機能しているのだろう。 実際、ひとつの作品を時間をかけてじっくり見るというのは技術だ。すぐ次に行ってしまいそうになる。美術作品を前にしても、キャプションだけ見て作品あんまし見てない、みたいなことないですか。

ちょうど席もあいていたので、私も描いてみた。チーマ・ダ・コネリアーノの祭壇画(の一部)。けっこう難しい!

目の前の作品に集中!

というわけで、ブレラ絵画館はあらゆる方法を駆使して鑑賞者に絵画を楽しんでもらおうという気概が感じられる最高の美術館だった。がんばってる美術館だいすき。ミラノにお越しの向きはぜひゆっくり時間をとって行ってみてね。

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美術史のプロセスを展示する——アントネッロ・ダ・メッシーナ展

突然ですがイタリアに来ています。今まであまりカバーできていなかった北イタリアを攻めようということで、実は未踏の地だったミラノを歩き回っているところ。

つい数日前からドゥオーモほど近くのパラッツォ・レアーレで「アントネッロ・ダ・メッシーナ展」をやっているというので、着いて早々観に行った。メインビジュアルになっている《受胎告知の聖母》が来ている(この作品はパレルモにあってなかなか観る機会がないので、これだけで行く価値があろうというもの)というくらいしか事前情報を把握していなかったが、これが素晴らしい展覧会だったのだ。

一言でいうと、これはアントネッロの生涯と作品を紹介する展覧会であるのみならず、アントネッロの作品群を通して、「美術史を研究するとはどういうことか」をまるごと展示する試みだ。

第一級の作品群を展示

どの作品が展示されているのかほとんど知らないまま行ったのだけど、「えっこの作品が?」「この作品も来てるの??」というくらいアントネッロの主要な絵画が網羅されていた。

見てこの贅沢な展示室の使い方!

まず最初に《書斎の聖ヒエロニムス》がドーンと出てくるのでくらくらしてしまう。しかも広い展示室の一室がまるまるこの絵画の展示に費やされているので、ある程度人が集まっていても、あまり混雑した印象がない。少し待てば至近距離で観察できるほどの込み具合で、普段はロンドンにあるこの作品を堪能することができる。私はこの絵の右奥に静かにたたずむライオンが好きなのだけど、今までシルエットだけが描かれているのかと思っていたこのライオン、よく見るとちゃんと顔まで描かれていてなかなかかわいらしい。

ここまで至近距離で見えちゃうぞ

アントネッロといえば忘れてはいけない、さまざまな肖像画ももちろん展示されている。ニヤリと不敵な笑みを浮かべる《水夫の肖像》、帽子の下からはみ出るふさふさの髪の毛に今までまったく気づかなかった。こういう発見も実際の作品を観る醍醐味だね。

写真撮るの忘れたので Wikimedia Commons から。でもこういうネットの画像だと髪の毛がぜんぜん見えないんだ。

それにアントネッロの作品のなかでもっとも著名で、今回の展示のメインビジュアルになっている《受胎告知の聖母》。これもまた一部屋に一枚のみの贅沢展示で、至近距離から観察しながら、じっくり大天使ガブリエルの気分に浸ることができる。

祭壇かよ
こんなに近くでじっくり観られるなんて…

ほかにも、ミラノの人々がアントネッロを宮廷画家として呼び寄せようとした記録の残る手紙が史料として出品されていたり、修復や科学調査で判明したさまざまな絵画技術がパネル展示されたりして、アントネッロの画業についてあらゆる方向から理解できるようになっていた。

第二の主役、カヴァルカセッレ

しかし、このアントネッロ展は彼の作品を展示するだけに収まらない魅力がある。それは、アントネッロに関わる美術史の軌跡もが展示されているという点だ。

まず展示室に入ると、アントネッロの画業の紹介とともに、19世紀の美術史家ジョヴァンニ・カヴァルカセッレとは誰かの説明がけっこうなボリュームで展開されるのが目に入るだろう。このカヴァルカセッレこそこの展覧会の第二の主役であり、展示を通してカヴァルカセッレの存在なしには現在のアントネッロの美術史的な評価はないということが露わになるという構成になっている。

冒頭の説明曰く、アントネッロはその死後80年も経つと主要な史料はほぼ失われてしまい、数々の伝説が残るのみとなったという。ヴァザーリが「アントネッロはヤン・ファン・エイクから直接油彩技法を学んだ」なんていう話を広めたもんだから真実はますます分からなくなるし、17世紀になればヴェネツィアの伝記作家リドルフィが、「ジョヴァンニ・ベッリーニが貴族に扮してアントネッロに肖像を依頼し、北方絵画の秘密であった油彩技術を盗み見た」なんていう逸話を作り出す始末。またこの逸話が19世紀に人気の主題となり、アントネッロの真の姿は伝説と逸話にまみれてまったく分からなくなってしまっていた。

そのような状態にあって、このような信用ならない伝記記述でなく、まさしく作品の直接観察によってアントネッロの画家としてのキャリアを再構成して見せたのが、われらがカヴァルカセッレであるというわけだ。

展示室では、アントネッロの代表的な絵画が贅沢に展示されているその横に、その作品に関連するカヴァルカセッレのノートが展示されている。この美術史家はヨーロッパじゅうを歩いてまわり、主要なコレクションを網羅して、さまざまな作品を自分の目で観て、絵の主要な構成を記録するためスケッチをし、その作品の帰属をめぐる思考の軌跡までもこまごまとメモして残しているのだ。

こういうスケッチを含む観察ノートが山のように残されているようだ

人間、ぼんやり絵を眺めているだけでは、けっこういろいろなものを見落としてしまう。 美術史の授業でも最初にディスクリプションの練習をするように、絵をしっかり見るには訓練が必要なのだ。その点「模写をする」、あるいはそこまでいかずとも、「真似してスケッチをする」というプロセスはその絵に関するさまざまな細部を浮き彫りにするものだ。

現在ベルリンにある青年の肖像
上の肖像を観たカヴァルカセッレのメモ

カヴァルカセッレの時代、現在ほど簡単に写真を撮ることができなかったという事情もあろうけれども、 彼がどこに注目し、どの部分から「この作品はアントネッロの作である」という結論を下しているのかがよく分かって面白い。私なんかはあまり目利きでないので、この美術史家の観察眼に舌を巻くばかりだ。

美術史のプロセスを展示する

こうしたアントネッロの作品や最近の修復や科学調査によって判明した技術、ミラノの宮廷と関連付けられる15世紀当時の手紙という一次史料、そして19世紀にアントネッロの軌跡を追ったカヴァルカセッレの功績、という幾重にもレイヤーが重ねられたこの展示は、美術史そのものを展示していると言っても過言ではない。

実際、美術史家の仕事とはまさしくこういうことだ。作品を観て、同時代の史料と関連付け、そして歴史上の、あるいは美術史上の位置づけを探る。そうした美術史の比較的地味な営みのなかに、ある作品を特定の作家に帰属するためのスリリングなプロセスを見出し、その面白さ、重要性をまざまざと見せつけるのが今回のアントネッロ展なのだ。

ただ、いかんせんアントネッロの情報+カヴァルカセッレの情報で、ものすごい情報量を提供しているので、気軽にピャッと鑑賞できる展覧会にはなっていない。絵を観る時間より文字を読む時間のほうが多いかもしれない。

しかし、美術史家の仕事、そしてその真髄を見せる気概を感じる展示なので、6月までやっているので、機会があればぜひ訪れてみてほしい。めちゃくちゃアガる展示です!

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ルネサンス工房を経営して名作を生み出せ! ボードゲーム「パトロネージュ」覚書

時祷書風のパッケージ

ルネサンス美術史を題材にしたボードゲームがあるということは、1年以上前にツイッターで見かけて知っていたんだけど(現世の情報の9割をツイッターから得る女)、このたびついに実物をプレイする機会を得た。傑作との呼び声高い「パトロネージュ」である!

ちょうど友人にボドゲ狂いがいたので、これ幸いと焚きつけてみたところ、ほかにも美術史に造詣の深い友人たちが興味を持ってくれて、総勢4人でボドゲカフェへ。

結論から言うとめちゃくちゃ楽しかったし、よくできたゲームなので、いろんな人にぜひ挑戦してほしい! ここではプレイ中に思ったこと考えたことをいくつかメモしておくね。

プレイ中のテーブルの様子

プレイヤーの立ち位置

説明書によると、各プレイヤーは「工房の長(マエストロ)」になることになってるけど、実際プレイしたところ、これはどちらかというと「工房の経営者」と言ったほうが正確なように思う。

プレイヤーはゲーム中で、手持ちの資金と相談しながら工房を建て、芸術家を雇い、作品を制作させる。プレイヤー自身が作品の制作者となるのではなく、資金を提供してくれるパトロンと実際に制作をおこなう芸術家とを繋ぐ、いわば仲介者のような存在になるわけだ。

このような仲介者をゲームの主役に据えると、良い意味でプレイヤーと美術作品とのあいだに距離ができて、美術もまた市場のなかでやりとりされる商品なのだということが浮き彫りとなるような気がする。

経済活動としての美術制作

美術とかアートとかと言うと、市場価値に置き換えられないとか、値段がつけられるにしても一般的な経済とは別のルールで動いているとか、とかく特別な市場原理を持つものだと捉えられがちだ。それはたしかに近現代の美術においては言えることかもしれないけど、15〜16世紀だと話がちがってくる。

「パトロネージュ」は基本的にはカードゲームなんだけど、ゲーム内で金銭として機能する金貨やそれをプールするための木製の鉢はとりわけ製作に力が入っていて、まるで本物のような手触りが楽しめる。金貨のデザインも、実際にルネサンス期にフィレンツェを中心に使用されたフィオリーノ金貨を模していて、ちゃんと百合紋と洗礼者聖ヨハネの絵柄が彫り込んであるのだ。

存在感のあるフィオリーノ金貨

これは単純にそうしたリアルなアイテムをやりとりするのが面白いというだけでなく、美術制作界隈においても、他の買い物と同じようにお金がまわるんだよな〜としみじみ実感させる装置として機能しているように感じた。

美術のジャンルと「発想力」

また、作品がただ漠然と「美術作品」として提示されるのではなくて、ちゃんと絵画・彫刻・建築でジャンル分けされているのもよい。作品によっては絵画と彫刻のミックス(ex. カッソーネ)とか、彫刻と建築のミックス(ex. 《天国の門》)とかもあって、実際それらの作品はマルチな技術が求められるものなので、現実に即している。

これは同時に、いくら名声の高い芸術家を揃えていても、作ってほしい作品と制作ジャンルが合わないと何も成果がない…という事態をもたらすので盛り上がる。高い金払って自分の工房に建築家ブラマンテや画家ラファエッロをお迎えしても、彫刻作品である《ダヴィデ像》は作ってくれないのよ。

制作能力はカード左上のアイコンで示される。
ルカ・デッラ・ロッビアは彫刻だけ、ブラマンテは建築だけ、フラ・アンジェリコは絵画だけしか制作できない。
「アンジェリコはいい画家だよ~」と友人。知っとるわ。

そうなると、絵画・彫刻・建築なんでもござれの「万能人」の卓越が相対的に浮き彫りとなる。ほんとレオナルドはなんでも作れてすごいよね。

あと、「発想力」がプラスされている芸術家は作れる作品の候補が増えるというのも面白い。それってインヴェンツィオーネじゃん! インヴェンツィオーネはルネサンス期から使われた美術批評用語で、要は作品の構想とそれを生み出す力のことだ。

工房のスペックと芸術家の能力

さらに、作品を生み出す環境も制作の可否に関わってくるのも、とてもよいシステムだ。よい工房を建てておくと後に制作できる作品の幅が広がるわけだが、これは一見当たり前のようでいて見逃しがちなポイントをよく突いているな〜と思った。

歴史に残るようなよい作品については、やはりそれを生み出した制作者が偉大であるような気持ちがしてしまうものだけど、実際のところ環境によるところもおおいにあるだろうしさ…その工房にいっぱい資料がストックされてるとか最新の機材が揃えてあるとか…とかとか…。

それから、より多くの名声をもたらす「名作」をあらわすカードには、金縁の特別な装飾が施されているんだけど、このカード群は最初のラウンドでは登場しないことになっている。

ラウンドを繰り返すうちに、この名作カードが少しずつゲーム内に導入されていき、だんだん名作を制作できる頻度が上がるシステムになっているのだ。そりゃ最初から名作は作れないもんね。

「名作」の数々!

ちょっと文句をつけるなら…

以上のように、「パトロネージュ」は非常に完成度の高いボードゲームなんだけど、少しだけ言いたいことがないこともない。

まず、タイトルの割にパトロンの存在感が案外薄い。たぶん注文のプロセスがないからだと思う。なぜその作品を欲しがっているのか、その作品を手に入れてどうするのか、という話がないので、ともすると芸術家たちが機械的に作品を生み出しているような感じに陥ってしまう。

これはおそらくゲーム製作者さんも気づいている点で、ゲームには説明書のほかにも「パトロネージュ講座」という小冊子が同封されている。そこではポントルモとブロンズィーノの二人が時代背景やパトロネージュの何たるかを教えてくれる対話篇が展開され、末尾にはゲームに登場する作品の詳細も紹介されているのだ。

少年ブロンズィーノかわいい

それから、登場する芸術家や作品がフィレンツェとローマに偏っている印象。北イタリアで活動した人、パッラーディオくらい? まあパラッツォ・デル・テは出てきたけども…ヴェネツィアください…ティツィアーノが木陰で泣いてるから…。

まあでも、もちろんプレイして楽しいことが優先で、ルネサンス期の美術制作プロセスを再現することは目的でもなんでもないので、ティツィアーノが泣こうがわめこうがゲームとしては全然問題ないです。

というわけで、ルネサンス美術史好きは「パトロネージュ」やろうな!! 説明書は販売元のサイトでダウンロードできるよ。

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西洋美術史おすすめ本まとめ

こんなツイートをしたら思いのほか反応があった。

小学館の新書のタイトルをまちがえる痛恨のミス(ほんとうは『西洋絵画の歴史』)。

西洋美術史の入門書、いっぱいあってどれを読んだらいいのかわからんもんね。というわけで、以下おすすめポイントとともに列挙していくぞ。

とりあえず通史が知りたい

最初に挙げた小学館ビジュアル新書の『西洋絵画の歴史』シリーズ全3巻は、とりあえずルネサンスから現代に至る美術の流れを知るのに、最もコンパクトでわかりやすいものとしておすすめ。新書なのでお値段がそこまで張らないのもポイントだ。

西洋絵画の歴史 1 ルネサンスの驚愕 (小学館101ビジュアル新書)

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とくにルネサンスが専門の人間としては、作品がもともとあった場所についての言及があるのがうれしい。この時代、美術は美術館で観るものではないし、今でも教会にある作品とかいっぱいありますからね。よく作品は現地で観ろっていうけど、本物はオーラがちがうとかそういうことよりも、昔の時代の作品はしばしば置かれた場所と連動しているからですよ。

美術作品とその背景にある思想を理解するという目的達成のため、書き方はわりとフレキシブルで、とりわけ最終巻の近現代美術を扱ったところは、あえて時系列に沿わず、テーマごとに美術の流れを解説する仕様。19世紀後半から20世紀以降はいろんな流れが同時に起こるから、テーマごとのほうが何と何がつながっているのかクリアになるよね。

まあ欠点を挙げるとすると、絵画史オンリーなので絵画以外の美術については手薄。でもそこもカバーするとなると3巻では済まないだろうね。あとルネサンスから始まるので古代~中世美術について知りたければ他を当たろう。


「美術史のだいたいの流れは分かっているけどもっと踏み込んだところまで知りたーい!」という向きは、中央公論新社の『西洋美術の歴史』全8巻に挑戦してみよう。ハードカバーだぞ。

西洋美術の歴史1 古代 - ギリシアとローマ、美の曙光

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芳賀 京子 芳賀 満
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中央公論新社のこのシリーズは、作品図版に紙面を割くのではなく、テクストによって美術史を語ろうという試みで、それもあって図版は少なめ。しかし専門家によるディープな話もどんどん知れるし、美術史に限らずなんでもそうだけど、やっぱりいちばん複雑なところがいちばん面白い。

作品ひとつ取っても、作家の状況、パトロンの状況、社会・政治・文化的背景、技法、経済、美術の制度や思想、アカデミー、ありとあらゆるいろんな要因が重なったところに生成されるものなので、それ一つ一つ解きほぐしていったらそりゃ面白いし、なによりその時代を知ることにつながる。

美術史という学問を知る

ここで「美術史ってどういう学問なの?」「美術史家って何を調べるの?」という疑問が生じた諸賢には、ちくまプリマー新書の『西洋美術史入門』シリーズ2冊がおすすめ。

西洋美術史入門 (ちくまプリマー新書)

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これも新書なのでお手に取りやすいサイズとお値段。この本、1冊目の『西洋美術史入門』では美術史の理論やディシプリンが紹介され、続く『西洋美術史入門 実践編』では具体的な作品を通したケーススタディが展開される。

これから大学等で西洋美術史を学びたいな、でも具体的にどういうことをするのかな…など悩んでおられる向きにピッタリ。それ以外にも、「美術史を論じることとと美術の批評ってどうちがうのかな?」というような疑問にも答えてくれるだろう。


と、ツイートでは140字にまとめてしまったけど、それぞれ性格がちがうので、自分に合った本を読んでみてね。

あと、よろしければ拙著もよろしくやで。イタリア・ルネサンスを中心に、作品制作に至るまでのいろんないざこざを紹介しています。 作家とパトロンのバトルとか、 作家と作家のバトルとか…(たいていバトルしてる)。

ルネサンスの世渡り術

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美術史のミソジニーと折り合いをつける

400年も500年も昔の美術作品を調べていると、ときどき21世紀人から見るとぎょっとするような主題のものがある。

パッと思いつく限りでも、ギリシャ・ローマ神話には「それって女性側からしたらどうなん?」となるような話が満載だし(テセウスに捨てられるアリアドネとか、ゼウスに犯されるエウロパとかレダとか)、キリスト教主題だって自分らの父親を誘惑する娘たちってどうなのってなるし(ロトと娘たち)、世俗主題でも純潔を汚された乙女が自殺するのが美談になってるし(ルクレティア)。それが絵やら彫刻やらであらわされて、当時の文献で「まことに美しい」とか書かれていたら、そりゃ絵はそうやろけどこれ相当ヤバい話やで? みたいになりますわな、こちとら21世紀人なんで…。

現在都内の大学で西洋美術史を教えているのだけど、こういう話を紹介するのは難しい。難しく感じているのはこちらだけかもしれないけど、とりあえずいちいち「いまの感覚でいったらナシですけどね」的な挿入句を挟むことでなんとか折り合いをつけている状況だ。西洋美術史はこうした男性中心の文化のなかで育まれてきたものなので、ある程度は飲み込んで鑑賞してもらわないと何も説明できないのだけど、でもやっぱちょっと居心地は悪いよね。

こうした居心地の悪さは、なにも最近になって始まったわけではない。20世紀半ば以降の美術作家たちは、 美術史に潜むこうした男性中心主義を告発し、それに否をとなえてきた。

エレノア・アンティン《パリスの審判》とルーベンス

たとえばエレノア・アンティンという作家は、2007年に「ヘレネーの旅 Helen’s Odyssey」と題されたシリーズを制作している。ここでいうヘレネーとは、もちろん絶世の美女と謳われたトロイアのヘレネーのことだ。そのシリーズの中の一枚、《パリスの審判》は、同主題のルーベンス作品をベースにしている。

エレノア・アンティン《パリスの審判(ルーベンスに基づく)》2007年
ピーテル・パウル・ルーベンス《パリスの審判》1638年ごろ

「パリスの審判」はトロイアの王子パリスが、三人の女神のうちだれがもっとも美しいか決める場面。パリスはもっとも美しい女神に黄金のリンゴを渡さねばならないのだけど、愛の女神アフロディーテがパリスに「選んでくれたら世界一の美女ヘレネーをあげるネ」と持ちかけ、この勝負を制することとなる。

ヘレネーにしてみれば己のあずかり知らぬところで自らの処遇が決定されてしまって迷惑千万だし、だいたいもっとも美しい女神とやらを選べるパリスも何様なんだ? という感が否めない。こういう筋書き、ちょっと男性にとって都合が良すぎやしませんか、とアンティンの作品は告発する。

画面右側に集合した三人の女神は、アテナ→男勝りな女、アフロディーテ→セクシーな女、ヘラ→家庭的な女、とそれぞれ非常に類型化された女性像に置き換えられ、属性のみと化したイメージとしての女性を皮肉っているようだ。また、品定めするパリスとその背後にいるヘルメスは、吟味する視線を女神たちに注いでいるけれども、この勝負でいちばんその身が左右されるはずのヘレネーは画面の左端で置いてきぼり。アンティン作品のほうがルーベンス作品よりちょっと横に細長いんだけど、こういうふうに画面端にヘレネーが置かれると、ルーベンスがわざとヘレネーをカットしたみたいに見えるので面白い。

アンティンがおこなったような、男性中心主義のただ中にある古典絵画をいわばジャックして、その枠組みや制度もろとも批判的に表現するというやり方は、それ自体きわめて美術史的な方法といってよい。1863年にエドゥアール・マネがティツィアーノを引用しながら《オランピア》を描いたときにも、画家は古典絵画をうまく使ってその虚構性を暴いた。暴いているものは違えど、両者のやり方は地続きである。

隠し切れないミソジニーが悪臭を放つのも西洋美術史なら、そういった枠組みごと表現でもって批判する精神もまた西洋美術史を構成する一要素なのだ。

シンディ・シャーマン《無題 #216》とフーケ

また、フェミニスト美術家がこのような表現をおこなった例として、シンディ・シャーマンは外せない。彼女の「歴史肖像画」シリーズは、西洋美術史上の聖母像や肖像が、いかに見せかけ・虚構で成り立っているかを浮き彫りにするものだ。

たとえば、聖母子像を自ら演じる写真作品《無題 #216》。これは忠実な再現ではないものの、ジャン・フーケによる聖母子像を彷彿とさせる。

シンディ・シャーマン《無題 #216》1989年
ジャン・フーケ《ムランの聖母子》1452-58年ごろ

露骨に作り物であることが強調されたシャーマン作品の聖母の乳房を見たあとにフーケ作品を見ると、シャーマン作品よりさらにありえない場所に乳房があって笑ってしまう。これも古典美術の虚構性というか、ルネサンス以降の絵画作品がどれだけ遠近法を極めて奥行きのある空間を描き、彩色を極めて肌の質感を追求しても、それは現実ではなくて単なる見せかけだし、多くの場合男性から見た理想をあらわしているに過ぎないよ、という事実を暴いているのだ。

とくにこのフーケの《ムランの聖母子》は二連祭壇画で、もう片側のパネルには聖母子に視線を投げかける二人の男性が描かれている。聖母子に祈りをささげる寄進者とその守護聖人の図だけれど、やっぱり何か一方向的なまなざしを感じるよね。

ジャン・フーケ《ムランの二連祭壇画》1452-58年ごろ

ケイト・マクドウェル《ダフネ》とベルニーニ

より最近の作家では、ちょっとどこまでフェミニズム的な意図が含まれているのかは分からないけれど、ケイト・マクドウェルという作家が面白い作品を制作している。《ダフネ》と題されたその作品が、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの《アポロンとダフネ》に着想を得ていることは確かだ。

ケイト・マクドウェル《ダフネ》2007年

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ《アポロンとダフネ》1622-25年

エロスの采配でアポロンに一目ぼれされたニンフのダフネは、しつこく追いかけてくるアポロンの愛を拒絶して逃げまくる。ついに捕まりそうになったところで、ダフネは父である河神に祈り、月桂樹に変身。その変身のいちばんドラマティックな場面を切り取ったのがベルニーニ作品だ。

しかし、マクドウェル作品においては、ベルニーニ作品よりもダフネの悲痛な表情が強調されているし(ベルニーニ作品は2.5メートルくらいの高さがあるので、近づくとダフネの表情はあまり見えない)、だいたいこんなことになったのはエロスにちょっかい出したアポロンのせいなので、ダフネからしたら、なんでお前のいたずらのせいで自分が木にならんとあかんの? という感じじゃないだろか。アポロンは無傷だし、このあとダフネの月桂樹で楽器作っちゃうんだよ。そんな都合のいい話があるかいな。

マクドウェルはそんなダフネの声にならない悲鳴を、破壊された像としてあらわしているかのようだ。 まぁアーティスト・ステートメントを読むと、マクドウェルはどちらかというと「人間と自然の共存の中で起こる軋轢」といったテーマに関心が強いようなので、植物と化す人間の姿を捉えるほうに重きが置かれているかもしれない。とはいってもやはり、破壊された身体と苦痛にゆがむ表情、これはやはり神話の理不尽に対するダフネの絶望だと思うのよな。

西洋美術史のなかの男性中心主義、それもとくに主題物語等に関しては、こういった作品を適宜紹介して、西洋美術の枠組みのなかですでに批判がある点を示していくというのが、今のところ私なりの穏当な「折り合いの付け方」かなあ。

もちろん、ここで批判されているようなルーベンスやフーケやベルニーニの作品は、当時の社会のなかではなんの問題もなかったはず。そもそも、ルネサンスからバロックにかけての時代、作品にはたいてい注文主がいて、注文主の求めや社会的に認められていた価値観に基づいて作られた。でも時代が変われば社会も変わる。作品の美的価値と内容の倫理が必ずしも一致しなくなってしまい、それと同時に鑑賞自体は万人に開かれているという環境が、このような状況を招いたのだ。

とりあえず、「そこはまあ昔の美術だからね」「これは巨匠の作品だよ」よりも一歩踏み込んだところまで言えるようになりたいものですね。

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《ミロのヴィーナス》の美は「不完全の美」?

先日ツイッターで、中村るい著『ギリシャ美術史入門』を良書として紹介した。

こんな感じで。

実際平易なことばで読みやすく、良書にはちがいないのだが、正直に言うとこの時点ではまだ最後まで読みきっていなかった。このたびちゃんと読み終えて特に印象に残ったのが、最後に紹介されるヘレニズム期の彫刻《ミロのヴィーナス》が、「美術史的には傑作ではない」とバッサリ切られていたことだ。以下、本文からの引用。

そして、これがとても大事なことですが、美術史学の観点からは、決して傑作とはいえないことです。クオリティーの点では、さきの《サモトラケのニケ》のほうがずっと上でしょう。ではなぜ、《ミロのヴィーナス》が至宝として扱われるのか。美術史の立場からいえば、頭部が残っているからです。クラシック期からヘレニズム期の、等身大かそれ以上のヴィーナス像の原作で、頭部の残っているものは、この像しかありません。これ以外で頭部が残っているのは、すべてコピー像です。つまり、頭部が残った唯一のオリジナルとして、稀少価値から評価されているのです。

ちょうど担当している講義で古代ギリシャ美術をやっていたので、そこでは《ミロのヴィーナス》が傑作かどうかには諸説あるとして中村氏の意見も紹介した。すると学生からのコメントで、高校の教科書で「《ミロのヴィーナス》の美はそれが不完全であるところにある」と読んだとの報告が複数あった(※注記1)。まじか。それは知らんかった。

中村氏の解説によれば、《ミロのヴィーナス》の特異性は、それが比較的完全に近いというところにある。なので、この逆転はちょっと面白い。しかし、ここでは別に《ミロのヴィーナス》が傑作か否かを議論したいわけではなくて、その美術史的価値と審美的価値に齟齬が生じているというところに注目したい(※注記2)。この「不完全だから美しい」という価値観、いったいどこから出てきたんだ?

また別の機会に東京芸大の研究室の学生さんたちと一緒に食事をした際、《ベルヴェデーレのアポロン》について面白い話を聞いた。この作品は両腕が欠落した状態で発掘されたため、ミケランジェロの弟子ジョヴァン・アンジェロ・モントールソリが腕を補完したが、1924年にオリジナル部分のみを残すため補完部分は除去された。しかしその後、剥き出しの加工跡を露出しているのはよろしくないということになり、モントールソリ作の腕が付け直されたのだそうだ。

その場の話題では「昔の人の証言や批評を読むとき、同じ作品でも同じ状態で観ているとは限らない」という話になったが(それはそれで面白い話)、この「後世の加工を除去する」というところに、「不完全の美」の芽生えをみることができるように思う。それはおそらく、オリジナル信仰と強い関係がある。

《ベルヴェデーレのアポロン》について調べていると、同じくヴァチカン所蔵の古代彫刻《ベルヴェデーレのトルソ》についても興味深いエピソードを見つけた。なんでも、教皇ユリウス二世がミケランジェロに《ベルヴェデーレのトルソ》の手足や顔を補うよう依頼したところ、ミケランジェロは「この彫刻はこのままで完全だ」と言って断ったというのである。

この逸話、チラッと Google Books で検索した限りではあるが、あまり学術書には出てこず、ガイドブックなどで「伝説によると〜」「伝統では〜」といった枕詞とともに登場する。初出がまだ確かめられていないのだが、たしかヴァザーリのミケ伝にはなかった話だと思う。

逸話が本当の話か後世の作り話かはとりあえず置いといても、ここでミケランジェロがそのセリフを言ったことになっているのは示唆的で、というのも、ミケランジェロはご存知のように「ノンフィニート(未完成)」の彫刻家であるからだ。

たしかに、同時代の美術批評家ベネデット・ヴァルキはすでに「ミケランジェロのノンフィニートはそこらへんの完成作よりも完全だ」といった趣旨の発言をしているので、未完成にも良さがあるという考えは出てきているものの、しかし未完成と不完全には差をつけなければいけないような気もする…。すでに《ベルヴェデーレのアポロン》の例にも見たように、ルネサンス期のイタリア、一部が欠けた古代彫刻は基本的に「創造的修復」を施すのが常だったし(見てきたように語るマン)。

《ミロのヴィーナス》の「不完全の美」、ミケランジェロの逸話、《ベルヴェデーレのアポロン》の腕の除去、どれも同類の思想が根底にある話であるように思う。まあでもこれを結論とするのは早計で、まずはミケランジェロの逸話の初出を特定せねば…。


※注記1

この教科書の文章について、出典元をご教示いただいた。

※注記2

ここの文はもともと「考古学的価値と審美的価値」と記していたが、《ミロのヴィーナス》は発掘調査で出土したものではなく、考古学では出土した場所(遺跡・遺構・地層)が明確でないと一次史料的価値はないとのご指摘をいただき、「美術史的価値」と訂正した。

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ベラスケスと17世紀スペインの美術批評

ベラスケス、154冊もの蔵書を有していたとか。たぶん17世紀の人はこんなふうに寝っ転がって本は読まない。長くやってると肩を痛める姿勢なのでよいこはマネしちゃダメだぞ。

土曜日に現在国立西洋美術館で開催中のプラド美術館展に関連するシンポジウムに行った。スペイン黄金世紀の美術を再考するという趣旨だったが、とくに自分の関心と合致したのは、17世紀スペインの美術批評を論じた発表。あとで振り返りたくなるかもしれないのでまとめておく。

17世紀スペインで刊行された重要な美術書は二つある。ビセンテ・カルドゥーチョの『絵画問答』(1633年)と、フランシスコ・パチェーコの『絵画芸術、その古代性と偉大』(1649年)だ。この二つ、とくにイタリアとの関係から検討すると面白い。

カルドゥーチョ:自然主義批判とイタリアへの郷愁

ビセンテ・カルドゥーチョ(1585-1638)は実はフィレンツェ生まれのイタリア人。なのでヴィンチェンツォ・カルドゥッチというイタリア語の名前で呼ばれることもある。とはいえ、まだ少年の頃にマドリードに移動したため、基本的にはスペインの人という印象。カルドゥーチョの『絵画問答』で展開される主な主張としては自然主義への懐疑がよく知られ、とくにカラヴァッジョ批判の文脈でよく取り上げられるようだ。

ちなみに発表では、カラヴァッジョ批判とされる箇所は「見たままを描いているだけなのにこんなに人気があってすごい」的なニュアンスにも読めるので、再検討の余地があるという話だったが、それでもカラヴァッジョをアンチキリスト呼ばわり(!)してるし、「こんな現実をコピーしただけの作品に感動してどうすんの」みたいな論調はたしかにあるので、やっぱ批判なんじゃないかな~。

その自然主義への懐疑はおそらく彼の出自がイタリアというところにあって、16世紀終盤のマニエリスム最盛期なフィレンツェの芸術観を受け継いでいるのだろうとのこと。たしかにマニエリスム界隈では、自然をそのまま描くのではなく、自然をベースにしつつもそれをより美しく描くことが絵画の使命である、との考え方があった。だからあんなに自然に見えないポーズの人体や胴体や四肢が引き伸ばされた人体が描かれるんだね。

しかし前述のように彼は幼いころにイタリアを離れているので、そこまでしっかり直接の影響があったとは思われない。ただイタリア出身のプライドがそうさせるのか、イタリアにある作品を観てきたように語っているというところはちょっと笑える。大部分は観たことないはずなのに。

フィレンツェ仕込み(?)の素描主義から、静物画や肖像画は低く見る傾向があり、その流れでベラスケスも批判されているという話もあるが、少なくとも名指しでは批判されていないということだった。しかしこれも原文を読んでみんと何ともやね。

パチェーコ:宗教画論とイタリア・コンプレックス

一方、フランシスコ・パチェーコ(1564-1644)はベラスケスの師匠にして義父(ベラスケスがパチェーコの娘フアナと結婚したため)。ベラスケスの最初の伝記を書いた人でもあり、基本ベラスケス万歳。婿殿自慢かな?w ちなみにパチェーコの工房はスルバランやアロンソ・カーノも輩出しているようなのですごい。セビーリャのヴェロッキオかよ(分かりにくい)(フィレンツェ中心主義の悪い癖)。

『絵画芸術、その古代性と偉大』はもともと技法書としての性格が強く、図版もなければ献辞もないが、もともとどういう体裁にするつもりだったのかは議論の余地がある。じつはパチェーコがこれをせっせと書いているときにカルドゥーチョが前述の『絵画問答』を堂々リリースしたので、パチェーコは先を越されてしまった。それで結局、パチェーコの『絵画芸術~』は彼の死後5年経ってからの出版となったのだ。

理論的一貫性はカルドゥーチョのほうがしっかり通っていて、パチェーコはボデゴン(厨房画)をランクの低い絵画ジャンルと認めておきながら、ベラスケスが描いたものは別、とけっこう強引な擁護をしている。自らの弟子ながら、モデルにすべき現代の三大画家の一人にベラスケスを数えているので、相当な入れ込みようだ(ほかの二人はルーベンスとチンチナートという画家)。

パチェーコの美術批評は、カルドゥーチョのように観てない絵を観てきたように語ることはせず、スペイン国内で実際に彼が観た作品を丁寧に批評する傾向にある。しかし宗教画については少し様子がちがっていて、ミケランジェロを批判しているというから面白い。おそらく多少のイタリア・コンプレックスがあったのだろうということが、この辺りからにじみ出る。

たとえばパチェーコはミケランジェロ《最後の審判》を版画で観る機会があっただろうが、版画を通してみると技法や彩色についてコメントすることはできない。しかしそれが宗教画であれば、デコールム(適切さ)という観点から批評ができるので、ここぞとばかりにミケ批判に走っているというのである。

もちろん、敬虔なキリスト者で、1618年には悪名高き異端審問にも関わっているというパチェーコのこと、ほんとうにミケ作品が許せなかった可能性もある。しかし、イタリアの美術論に依拠しつつも、それを超えたいという思いが思わず溢れてしまったのだとしたら、『絵画芸術~』はなかなかエモい美術書なんじゃないだろか。

なんかあまりベラスケスの話しなかったな。まあいいか。