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4月6日はラファエッロの誕生日にして命日…なのか?

4月6日は我らがラファエッロ・サンツィオの誕生日にして命日。19世紀には死の床にあるラファエッロを描いた絵がしばしば見られる。これはヘンリー・ネルソン・オニールの1866年の作。

ラファエッロが亡くなったときのことはヴァザーリも『芸術家列伝』に記している。ちょい長いけど以下引用。

一方ラファエッロはというと、その間も相変わらず密かな恋愛沙汰に余念がなく、いささか度を越して情事に励んでいた。あるとき、いつも以上に激しい情事を楽しんだ後、高熱に襲われて帰宅するに及んで、医者たちはてっきり彼が熱病にかかったと思い込んだ。彼は自分がはめを外したことを話さなかったため、医者たちは軽率にも放血を施し、本来ならば滋養が必要なところをいっそう衰弱させてしまい、ついにラファエッロは自分の死期が近いことを感じとった。〔中略〕こうして最後の告解を済ませ、彼は世を去った。命日は誕生日と同じ聖金曜日で、享年37。ラファエッロの魂は、生前彼の才能がこの世界を美しく飾ったのと同じように、死しては天上世界の誉れとなっているものと信ずべきである。ラファエッロの亡骸が置かれた広間は彼が制作していた部屋で、その枕元にはメディチ枢機卿のために仕上げられたキリストの変容の板絵が飾られた。この絵を見るにつけ、死した画家の遺体と〔絵に描かれた〕生きた人々を目の当たりにした人々は皆、深い悲しみを禁じえなかった。

よくラファエッロの死因は腹上死などと言われるのはこの記述の前半部分がソースかと(よく言われるのか?)。また、亡くなったのが聖金曜日だったというのも、ヴァザーリ以外にも同時代の証言があるため信憑性は高そう。ただし、ここではその日付が4月6日であることは書かれていない。この日付はおそらくラファエッロの墓碑銘を情報源としている。

ラファエッロの墓碑銘は、彼の盟友にして詩人ピエトロ・ベンボによって書かれた。そこには「彼は自らの誕生日と同じ日付、1520年4月6日に亡くなった」とあり、これが具体的な日付の根拠になっているようだ。なぜあえて4月6日? じつは、この日は非常に特別な意味をもつ日だったのだ。

ここで鍵となるのが詩人ペトラルカ。1327年の聖金曜日、すなわち4月6日は、ペトラルカが最愛の恋人ラウラにはじめて会った日にあたる。彼が終生愛し多くの詩を捧げることになる女性を見出した日なので、すなわち彼の詩的な「誕生日」ともとらえられる。4月6日はまた、ラウラが亡くなった日でもある。つまりこの日は、ペトラルカの詩的な生誕と死の日なのだ。

ベンボはペトラルカの自筆原稿を所有し、彼の詩にコメンタリーを書くなどもした、大のペトラルカファンである。彼はラファエッロの墓碑銘で、ペトラルカの詩的な誕生日/命日にラファエッロのそれとを重ね合わせることにより、ラファエッロをルネサンス三大詩人のひとりペトラルカと関連付けた。絵画は詩に比肩するほどの高貴な芸術だし、ラファエッロは絵画におけるペトラルカだというわけだ。

さらに、聖金曜日といえばキリストの受難日だが、14世紀の伝統によれば、この受難日は4月6日だったとされる。つまり、ラファエッロが4月6日に亡くなることは、彼をキリストになぞらえることでもあった。ラファエッロの死の床に《キリストの変容》が置かれたとヴァザーリが語るのは興味深く、このような日付の遊びによってヴァザーリ自身がラファエッロを神的なものへ「変容」させていることを象徴しているかのようだ。

ちなみに、ラファエッロが亡くなったのが1520年の聖金曜日であったことは前述のようにほかの証言があるが、誕生日も同じ日だったかどうかは、出生の記録が残されていないため本当のところは分からない。実際ラファエッロの生年にあたる1483年の聖金曜日は3月28日だったりする。まあでも、ここはラファエッロの神聖性を演出しようとがんばったベンボやヴァザーリの試みを面白く受け取りたいところですな。


参考文献

  • ジョルジョ・ヴァザーリ『美術家列伝』第三巻「ラファエッロ・ダ・ウルビーノ伝」、越川倫明・深田麻里亜訳、中央公論美術出版、2015年。
  • Paul Barolsky, Why Mona Lisa Smiles and Other Tales by Vasari, University Park: The Pennsylvania State University Press, 1991, pp.38-39.
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15世紀のフィレンツェでお財布が寂しくても有名芸術家の作品を注文する方法

15世紀フィレンツェを代表する彫刻家ロレンツォ・ギベルティ[Lorenzo Ghiberti: c. 1381-1455]と注文主であるアルテ・ディ・カリマーラ(毛織物商組合)のあいだの給与支払い形態についての論文を読み直し。ギベルティはサン・ジョヴァンニ洗礼堂のブロンズ扉を二つも作ったことでよく知られている。とくに大聖堂に面した輝く扉は、ミケランジェロをして「天国の扉」と言わしめたことでも有名だ。

ルネサンス期の宗教施設は、つねに宗教団体のみが管理しているわけではなく、職業組合がその管理に関わることもあった。職業組合も半分宗教組織みたいなものだし、そのへんの境界線は今よりずっとあいまいだ。サン・ジョヴァンニ洗礼堂も例外ではない。そのメンテ係は、毎年カリマーラ組合から選出されていた。この組合のアーカイヴ資料は18世紀に火事で焼けてしまってほとんど残っていないが、わずかな写本から多少状況を推測することはできる。

どうもギベルティが最初のドアを仕上げようとした1428年ごろに問題が表面化したようだ。端的に言って、ギベルティのやつ、金がかかりすぎるのである!

給料はべつに現金じゃなくてもいい

ただでさえ高価なブロンズを湯水のように使う巨大な門扉、その予算22,000フィオリーノ。なんとフィレンツェ共和国の年間軍事予算に匹敵する。加えてギベルティの給料が年間200フィオリーノもかかる。(ちなみに一般的な職人の年俸は40フィオリーノ程度。ミケランジェロが《ダヴィデ》を作っていたときの年俸でも72フィオリーノ止まりである。)扉の制作に関わるこれらの出費をカバーするため、カリマーラ組合はすでに1800フィオリーノの借金をしていたが、この利息がまた毎年116フィオリーノ。こうした苦しい状況を改善しようと共和国政府に援助を依頼するも、これがあっさり断られてしまう。政府も1420~30年代にかけては軍事費用がかかりすぎて財政難だったのだ。

こうした状況をギベルティは知らなかったわけではない。彼は彼で救済措置を提案した。給与の支払いが遅れても大目に見たし、金銭の形で支払われなくても受け入れたのである。

たとえば、1431年には、ギベルティはカリマーラ組合の所有していたカレッジ郊外の農場を買い取っている。オリーブ園や果樹園に加え、家が二軒コミコミで370フィオリーノのところ、約80フィオリーノでこれを購入。ちょうど組合から280フィオリーノほど支払いが遅れていたところだったので、これでトントンにしたというわけだ。ギベルティが自分の給料を自分で払っているようで笑えるが、彼のほうにもメリットはあった。農場に小作人を住まわせれば、そこから毎年34フィオリーノの利益が得られるのだ。要するに投資である。

羊毛組合、ライバルに資金提供してしまう痛恨のミス

1430年代に入ると、ギベルティに大型注文を入れるのはカリマーラ組合だけではなくなった。1432年、サン・ジョヴァンニ洗礼堂のお向かい、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂を管理するアルテ・デッラ・ラーナ(羊毛組合)が、大聖堂内に設置する聖ゼノビウスの墓廟の制作をギベルティに依頼したのである。聖ゼノビウス、じつはフィレンツェの守護聖人。初代フィレンツェ司教なのだが、フィレンツェの守護聖人としては洗礼者ヨハネの存在のほうが目立つので、ゼノビウスは地味ダヨネ(こっそり)

聖ゼノビウス廟は3年半で完成させる契約だったが、ギベルティは洗礼堂の扉をせっせと作っていたのでこちらはおろそかになり、5年たっても全然できてなかった(ルネサンス美術あるある)。1437年4月、ギベルティが洗礼堂の扉のパネルを全部鋳造しおわるのとほぼ同時に、羊毛組合のほうはギベルティとの契約を切る決定をする。契約条件がブッチされたのだから当然だが、羊毛組合が激おこだったのは、ギベルティがカリマーラ組合に対して甘々で、カリマーラ組合が給与を支払えなくても、ギベルティがあらゆる解決法を提示してあげていたからかもしれない。

ルネサンス期の大型注文は、作品の代金がいっきに払われるのではなく、分割して少しずつ支払われるのが一般的。前金でいくら、ひと月ごとにいくら、完成したら全額、といった具合だ。おそらく羊毛組合のほうはカリマーラ組合よりもコンスタントにギベルティに給与を支払っていて、それも年額185フィオリーノと結構な金額だったので、ギベルティのメイン収入源になっていたはずだ。

フィレンツェの職業組合は互いにその豊かさを競い合う仲だった。フィレンツェの都市を装飾する公的な美術作品のスポンサーになって、その立派さにより職業組合の裕福さを誇示するのは常套手段。当然、カリマーラ組合と羊毛組合もライバル同士である。ギベルティが多少自分の懐を犠牲にしながらカリマーラ組合に給与の支払いを融通してやっているのを見て、羊毛組合は思ったことだろう。ギベルティお前なんで金払いの悪いほうにいい顔してんの。しかもいい顔できるのは、こっちがちゃんと給料支払ってるからやんけ。ふざけてんのか。

勢いで絶縁状をたたきつけたものの、フィレンツェにはギベルティ以外に頼める彫刻家もいない。1442年には羊毛組合は改めてギベルティに聖ゼノビウス廟を依頼することとなる。ただし今回は制作の進行がより詳細に監視されることとなった。前科があるから仕方がないね。

給与の支払いは意外とフレキシブル

というわけで、どうにも「芸術家」と「注文主」という関係を前提に見ると、わたしつくるひと、あなた払うひと、みたいな印象を持ってしまうが、この二者間における金銭の流れは結構フレキシブルだったようだ。実際、ここでギベルティとカリマーラ組合の関係に見たように、ときにはギベルティのほうがカリマーラ組合にお金を払うような事態にもなったのだ。もちろんあまり頻繁には起こらなかっただろうケースではあるが、興味深いケーススタディとしてここにメモしておく。

それにしてもそこまでの財政難に陥りながらなおギベルティに依頼しようとするカリマーラ組合、そしてそこまでの財政難を知りながら値段については譲らないギベルティ、お互いなかなかプライドもお高そうであることよ。


参考文献:
Amy R. Bloch, “Lorenzo Ghiberti, the Arte di Calimala, and Fifteenth-Century Florentine Corporate Patronage,” Florence and Beyond: Culture, Society and Politics in Renaissance Italy, eds. by David S. Peterson and Daniel E. Bornstein, Toronto: Centre for Reformation and Renaissance Studies Publications, 2008, pp. 135-154.

新装開店

いろんな活動が多岐にわたってきたので、ここらで少しまとめる必要を感じ、わたしという人間がやっていることが一目でわかる場がほしいなと思いました。そんなわたしのわがままなご要望にお応えして爆誕したのがこの「壺屋の店先」です。

管理人のめりは西洋美術史の研究を生業としているのですが、同時に西洋美術史上のいろんな人物をキャラ化してイラストや漫画を描くのを趣味としています。また近頃は頻繁に映画を観ておりまして、研究上関連する芸術家の伝記映画など意識的に鑑賞しております。

こうした活動はすべてが仕事ではないけれど、たがいに密接に関連しています。なので、あえて仕事と趣味をわけず、一つのサイトで確認できるような場があることが大事だと思いました。

これまで長らくツイッターを主な発信の場としてきたけれど、ツイッターはどうしても投稿が流れてしまうし、書いたもの描いたものをストックしておくプラットフォームには適さないので、このたび時代遅れの個人サイトを開設してみました。

今までも個人イラストサイトなど運営したこともあったのですが、イラストサイトという特質上、こうした文章をつづるには適さない仕様になってしまっていたので、思い切って新しいサイトにお引越しと相成りました。

というわけで、壺屋新装開店です。