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風刺の同時代性と当事者性——映画『シュシュシュの娘』公開に寄せて

なんじゃこのブログは…半年に1度しか更新されんぞ…。サーバ代払っとるのに…。日々の諸々はツイッターで事足りちゃうので仕方ないね。

去年7月、入江悠監督がクラウドファンディングで新作オリジナル脚本映画を撮影するというので、これ幸いと参加した。なにを隠そう、わたしは入江監督のファンなのだ。『ビジランテ』は最高なので全員観て。よりキャッチーな作品としては『ギャングース』も素晴らしい。ネトフリにもアマプラにもあるよ。

そんなわけでコロナ禍のなか製作されたインディー映画『シュシュシュの娘』は、パンデミックが猛威を振るうなか、撮影、編集、とつつがなく進み、来る8月21日に公開予定だ。一般公開に先立って8月5日に支援者対象の試写会があったので、いそいそと行ってきた。ちなみに8月11日にもプレミアム先行試写会があり、そこでの収益は全額ミニシアターに寄付されるとのことなので、劇場に行くのを勧めにくい時節ではあるが、行ける人はどんどん行こう。

予告編だよ

さて、こまごまと感想を書きたいところなのだけど、ネタバレ厳禁とのことなので、あらすじには極力触れることなく、「わたしが『シュシュシュの娘』を観てどう思ったか」について書いていこうと思う。

気負うことなく観るのが吉

クラウドファンディングで完全自主映画として製作する、メジャー映画ではできないことをする、と当初からアナウンスされていたので、なんかすごい政治批判が展開されるのでは…という予感があった。そして、政治批判をすることが目的となり、映画としての質が犠牲になるのは嫌だな、と思っていた。

蓋を開けてみると、はたして政治批判はあった。あったのだが、政治批判のための映画にはなっておらず、フィクションの愉しみも存分にあった。現在の政府の問題と重なる社会問題がプロットの根幹にあり、それが物語の推進力になっている。社会問題パートがアクチュアルに迫ってくる一方で、ストーリーのほうは非現実的で軽やかにユーモラスに進む。このストーリーまでも重々しいと鑑賞後感が陰鬱になり、世界に救いはない…人類を滅ぼすしか…となってしまう。しかし『シュシュシュの娘』は、劇場内でところどころ笑いが起こるほどにユーモアがたくさん盛り込んである。

現実にもある社会のゆがみ、排外主義、利権問題などなどを薄めることなくスクリーンに再現しながら、エンタメとしての役割も放棄していないので、「政治批判の映画…!」と気負うことなく存分に楽しむつもりで観るのがよいと思う。

同時代人だからこそ理解できる

もうひとつ、まさにいま『シュシュシュの娘』を観るべき理由がある。それは、映画のなかで展開されるさまざまな政治風刺が、説明なしに頭に入ってくる体験ができるということだ。

わたしは16世紀のイタリア美術史が専門なので、昔の絵を見たり、昔の文献を読んだりする。すると、当時の教会を批判する詩とか、当時の知識人ならだれでも知っている古代のイメージを参照した絵とかがバンバン出てくる。そうした史料は、わたしのような21世紀を生きる日本人が見ても、すぐには了解されない。当時の時代背景をほかの文献を調べ、文化的な文脈を押さえてはじめて「これ風刺か~!」となる。

べつに16世紀の例を出すまでもなく、遠い異国の映画を観るとき、その背景まで押さえていないと理解できないことはよくある。たとえばアメリカの政治、あるいはその地域ではよく知られた神話や伝承、そういったことが解説されてはじめて映画の描写全体が腑に落ちる、ということは、映画をよく見る人にはあるあるだと思う。

『シュシュシュの娘』には、こまごまとした政治風刺が要所要所に登場する。こうした風刺を正しく受け止めるのに、わたしたちはなにか特別な解説を受ける必要はない。あまりに毎日のことすぎて、提示された瞬間に理解するからだ。16世紀の人が教会批判の版画を見て理解するスピードを体感できたのは、映画の物語自体には関係ないけれど、感動的なものがあった。これが同時代性というものか。

風刺を当事者として受け止める

また、わたしは以前、『シン・ゴジラ』を大阪・梅田の映画館で観てから、新宿の映画館で再度観たことがある。梅田で観たときにはついぞ感じなかった「ゴジラがここに迫っている」という感じが、新宿では桁違いだった。まちがいなく、映画の舞台=東京で体験しているからだ。同じようなことが『シュシュシュの娘』でも起きる。物語中に現れる、倒すべき悪、正すべき不正は、わたしたちが日々直面しているものなのだ。

これがアメリカのハリウッド映画だったりすると、政府の陰謀、警察の汚職などが、暗躍するヒーローによって成敗される。そういう物語はスッキリするが、そこで倒される悪を身近なものとして感じたことはなかった。アメリカ国民の人はこういう映画を観たときにちゃんと現実の問題として当事者性をもって鑑賞できるのだろう。そういう意味では、わたしはBLM映画もLGBT映画も楽しんで観るけれど、ほんとうに理解はしていないのかもしれないな。

しかし、『シュシュシュの娘』で描写される社会問題や政治風刺は、2021年の日本に生きるわたしたちだからこそ直接的に受け止めることができる。これはつまり、わたしたちのために作られた映画であり、いまこの作品をわたしたちが観ることには意義があるということなのだ。


以上、つらつらと書いてはみたが、とりあえずこれを読んでいる人には「ぜひ観てね!(できれば劇場で)」というメッセージが伝われば幸いだ。公開日までに、映画館に行きやすい環境になっていますように。

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ないがしろにされた人々への頌歌——映画『バクラウ』の政治的背景

先日、映画『バクラウ』(クレベール・メンドンサ・フィリオ&ジュリアーノ・ドルネレス監督/ブラジル・フランス)を観た。もう最高の映画ですっかり魅了されてしまったのだけれど、ぜひともパンフレットを読んでその背景や裏話を知りた~い! と意気込んだところ、なんとパンフは作成されていないという…。本気か?

最高の映画であることはまちがいないのだが、いかんせんよく分からないシーンも多い。どうやらブラジルの現況に対する批評的側面が強い作品のようなのだ。監督自身、ローカルな問題を扱ったつもりだったのに、この映画がブラジルのみならず国際的に評価されていることに多少驚いているそうで、「この映画はドルビーデジタルの音声が埋め込まれた35mmフィルムみたいなもので、モノラルの機材でも映画を観ることはできるけど、ドルビーデジタルの機材があれば6トラックの音声が聞ける。ブラジルでは6トラック聞けるんだ」と語っている。しかし、6トラックあるなら6トラック全部聞きたい。それが人情というものじゃろう。

かくしてわたしは何かと忙しい年の瀬に、監督や出演者の英語で公開されているインタビューをインターネッツで漁りまくることとなった。わたしと同じように、映画を観て面食らっている人も多かろうから、インタビューや海外レビュー等で得られた情報をここで共有しておこうと思う。

予告編だよ

過去の映画の参照

シネフィルというのは映画同士の関係性を知りたがるもので、監督は多くのインタビューでどのような映画を参照したのか問われている。まず何よりも指摘されているのが、ジョン・カーペンター監督へのオマージュが作品中にたくさん見られるということだ。冒頭の壮大すぎる地球の眺めは『遊星からの物体X』だし、バクラウの学校には「Prof João Carpinteira」の名前が見える。そしてサントラでは同監督の音楽作品から「Night」(アルバム『Lost Themes』所収)が効果的に使われている。

シーンの切り替えで多用されるワイプやディゾルブといった、今となっては時代遅れに思われる効果も、過去の映画への目くばせだ。映画評論家たちは似た空気感の映画として黒澤明『七人の侍』をよく挙げているが、監督自身からは70年代の西部劇やジャンル映画への言及が多い。アメリカ映画からはカーペンターのほか、マイケル・チミノ、サム・ペキンパー、ジョン・マクティアナンといった名前が、イタリア映画からはセルジオ・レオーネやセルジオ・コルブッチといったマカロニ・ウェスタンの巨匠が挙げられていた。なるほどなるほど、西部劇と、血がドバーッてやつと、人間ドラマやな!(短絡)

もちろんブラジル映画からの影響も大きいとのことで、具体的にはグラウベル・ローシャ、ロベルト・サントス、ネルソン・ペレイラ・ドス・サントスといった名前が挙がっていた。ブラジル映画の歴史を知らないのでなんもわからん…すまんな。ただしローシャ監督については後述する。

しかし、たしかに西部劇をはじめとするジャンル映画への愛好が端々にあらわれるものの、『バクラウ』はそれをただなぞるだけの映画ではない。むしろ、それまでのアメリカのジャンル映画における「お約束」をひっくり返している。たとえば、西部劇では開拓者であるカウボーイが地域の先住民であるインディアンと戦うというお決まりのストーリーが存在するが、『バクラウ』では同様に先住民と開拓者のあいだの戦いを描きながら、侵略するものとされるものの役割を逆にしているのだ。

また、日本語で『バクラウ』をツイッター検索すると、『ミッドサマー』(アリ・アスター監督)と比べている人が多いようだ。「2020年は『ミッドサマー』で始まり『バクラウ』で締めくくられた」と書いている人もいた。たしかに両作品は「よそ者が軽い気持ちで辺境の地に侵入してひどい目に遭う」という点では似ている。だが、作品のメッセージのことを考えれば、どちらかというと「『パラサイト』(ポン・ジュノ監督)で始まり『バクラウ』で締めくくられた」と言いたいところ。なぜなら、どちらも現代社会にはびこる格差の犠牲になっている人々と、彼らの逆襲を描いた作品だからだ。実際、監督も「『バクラウ』は『パラサイト』のいとこのような作品」と発言している。

新たなるキロンボとしてのバクラウ

監督によると、この映画の最初のアイディアを思いついたのは、ある映画祭での出来事がきっかけだったという。そこでは民族ドキュメンタリーがいくつか出品されていたが、そうした地方に生きる人々は「風変わりで、単純な人々」「他者」として表現されていた。作品のあらすじに堂々と「単純な人々 Simple people」と書かれているものさえあった。simple は「バカな」という意味ももつ単語だし、普通にひどい物言いだ。言うまでもなく、最大限に文明化された社会に住んでいないからと言って、彼らが単純/バカであるとはならない。それで、辺境に住む偉大な人々についての映画を撮ろうと相成ったわけだ。

物語の舞台はブラジル北東部にある「バクラウ」(ポルトガル語でヨダカを意味するらしい)という架空の村。ロケ地の選定にはかなり手こずったようで、はじめは監督二人の故郷でもあるペルナンブコ州での撮影を希望していたが、ちょうどいい場所が見つからず、結局もっと北にあるリオ・グランデ・ド・ノルテ州で撮影したそうだ。ペルナンブコで撮影したかったのは、監督たちの故郷だということに加え、そこが史上最大のキロンボであったパルマレスのある土地だからだろう。

「キロンボ」とは、黒人逃亡奴隷が形成した集落のことだ。17世紀に、オランダ、次いでポルトガルの植民地となったブラジルでは、アフリカから黒人奴隷が連れてこられ、厳しい条件で働かされていた。すると、あまりの厳しさに逃亡する者たちが出てくる。逃げた奴隷たちは、ブラジル北東の奥地に「キロンボ」と呼ばれるコミュニティを形成し、助け合って暮らした。ブラジル北東部には、現代でもこうしたキロンボの名残が多くあり、その構成員のほとんどは黒人だ。最大のキロンボとして知られるパルマレスの人口は、一時期3万人にも上ったそうだ。

そんなコミュニティは、抑圧者であるポルトガル人側からすれば当然排除の対象だが、パルマレスは抵抗した。したがって、キロンボは避難所であり、また抵抗の場でもある。バクラウも同じだ。序盤、村がさまざまなバックグラウンドをもつ人々によって構成されていることが説明されるシーンがあるが、そこでは娼婦なども分け隔てなく言及されていた。娼婦のようなマイノリティは、より文明化されているはずの都市では隠されるのに対し、バクラウでは、村で働きその生活に貢献する、コミュニティの立派な一員としてあらわされる。バクラウはそうしたアウトサイダーがほかの人となんら変わらない扱いを受ける場所なのだ。そう考えると、ドミンガス医師は亡くなったカルメリータとの間になにか特別な関係があったようだし、黒いマニキュアとアイラインが特徴的なルンガもクィアな存在だ。バクラウは、マイノリティのための新たなるキロンボとして描かれているのだ。

パルマレスの人々は、侵略者の度重なる襲撃に耐え、ポルトガル人に「不思議な動きで攻撃が避けられてしまう」「オランダ人より強い」と言わしめた。不思議な動きとは? と思うところだが、彼らはカポエイラによって戦っていたのだという。『バクラウ』のなかにも、村人たちがカポエイラを踊るシーンがある。これはもともと監督のアイディアではなくて、俳優たちが自発的に踊りはじめたものを映画に含めたという話だ。ここで流れる音楽は、先ほども言及したカーペンター監督の「Night」。カポエイラを踊る人々の映像が「Night」のインダストリアルな音に侵食されていくさまは、まさしくバクラウが「近代化社会」に襲撃されようとしていることをあらわしている。非常に象徴的なシーンだ。

ブラジル映画におけるセルタンとカンガセイロ

バクラウ歴史博物館に並べられた銃の数々や過去の新聞記事は、これまでに村が直面してきた戦いの軌跡をあらわしている。映画の後半はかなり暴力シーンが目立つが、これは、現代のキロンボ=抵抗の場としての表現であると同時に、村人たちをカンガセイロとしてあらわす手立てとなっているようだ。

「カンガセイロ」は、「盗賊」をあらわすポルトガル語で、19世紀末から20世紀前半にかけて活動したブラジル北東部農村の匪賊を指す。この北東部は「セルタン(奥地)」と呼ばれ、その大地はあまり肥沃ではない。あまり肥沃ではないというか、旱魃や飢饉が起こりやすい乾燥した荒地。農業を営んでもろくに実らないため、ずっと貧しいまま。そんな農村から逃げ出し、盗賊団を結成して村を襲うのがカンガセイロだ。ただし、なかには農村の小作人を搾取する大地主を標的に襲撃・略奪する勇敢なカンガセイロもおり、そうした者は義賊として英雄扱いされたのだとか。

ブラジル映画史において、セルタンは反抗と革命の土地なのだという。『映画芸術』によると、先に名前が挙がったグラウベル・ローシャ監督は、セルタンを舞台にした社会批判と抵抗闘争の物語を撮っている。「ポルトガル人が入植した時代から都市は沿岸部にでき、そこで問題を起こした者は内陸の不毛な大地へ逃げた。セルタンはそうした社会からはみ出したアウトサイダーや抵抗者が、反政府勢力、逃亡奴隷、義賊へと変貌を遂げる危険な土地なのだ」(『映画芸術』ウェブサイトより)。

カンガセイロには名前の残る有名な義賊もいて、彼らを題材にした映画も複数あるようだ。もちろん『バクラウ』も、そうした伝統上にある、カンガセイロ映画のもっとも現代的なものとして捉えることができる。とはいえ、村人たちは抑圧されるだれかのために戦っているわけではなくて、彼ら自身とそのコミュニティを守るために戦うので、義賊というよりは猫を噛む窮鼠のような趣きがあるが…。

だが、『バクラウ』ではそうしたアウトサイダーたちを特別視はしていない。結局、彼らも同じ人なのだ。それなのに、抑圧者から見ればどうも彼らは他者、もっと言えば未知の生物のように見えるらしい。それを象徴しているのがバイク乗りたちが商店に寄るシーン。「このあたりの人はなんと呼ぶの? バクラウ人?」と尋ねた女性に対し、少年は「『人』だよ!」と答える。バクラウの人々は謎のヤバい村人ではなくて、ただないがしろにされ、バクラウに居場所を求めてきた単なる「人」なのだ。

殺人部隊の無理解

そんな集落であるバクラウに足を踏み入れる謎の殺人部隊は、こうした背景がまるで分かっていない。分かっていないし、分かる気もない。

たとえば、斥候隊のバイク乗りたちがバクラウにはじめてやってくるシーン。村人たちが執拗に「博物館を見ていったら?」と勧めるのにもかかわらず、彼らは博物館を見ずに足早に去ってしまう。このとき博物館を少しでも見ていれば自分たちの運命が分かっただろうに、その土地の文化や歴史を知ろうとは考えない。なんと愚かな…。

だが、殺人部隊のあいだにも人種ヒエラルキーがある。襲撃作戦会議のシーンで、村に入る人はつねに監視されていることが話題にあがると、バイク乗りたちは「彼の名前はダミアーノだ」と言うけれど、「名前なんぞどうでもいい」と返されてしまう。要は、ほかの殺人部隊は彼を名前を持つ個人として見ていないのだ。このシーンは、この後ダミアーノの家で起こることを考えるとなかなか痛快だけれど。

また、これは監督自身「映画を観ていてもなかなか気づかない細部」と言っていることだが、ダミアーノの家を襲う二人組のうち女性のほうは、翻訳機を使ってコミュニケーションを試みる。翻訳機で言語を設定するにはまず地域を選択するのだが、彼女はブラジルからポルトガル語を選択するのではなく、ポルトガルからポルトガル語を選択している。ブラジルで話されるポルトガル語とポルトガルで話されるポルトガル語が異なることさえ、彼女は知らないのだ。

殺人部隊はかならずしもアメリカ人のみで構成されているわけではないが(バイク乗りはブラジル人だ)、それでもアメリカがこの部隊の背景にあることはかなり強調されている。正直オバマ元アメリカ大統領の2020年ベスト映像作品リストに『バクラウ』が挙がっていたときはびっくりした。だってこの映画でアメリカめちゃくちゃ批判されてない??

監督インタビューでも、ニューヨーク生まれのインタビュアーに対して監督側から「観てどう思った? アメリカ人として気まずい?」と質問しているものがあった。そこでインタビュアーは、以下のように答えている。

「いえ、気まずくはないです。映画のなかのアメリカの存在や、そのさまざまな描かれ方にはすっかり慣れています。どこかを侵略したり、特別部隊を結成したり、ならず者だったり…。アメリカ人の非合法な集団が外国でヤバいことをやらかすというような描写は、もう普通に思えますね。ただしそれはアメリカ映画の場合で、アメリカ側ではない視点の映画でそういうことが描かれるのはレア。それで違和感があるのかな。もしこれがブラジルに行ってやらかすアメリカ人のチームの話だったら、『せやな、当然うちらはそゆことするよな』ってなりますね」

Oh… 世の中にはびこる不正や不平等、自分たちの過去のあやまちについて真摯な映画が作られる環境はすばらしいけど、それにすっかり慣れちゃうとは、アメリカ人もたいへんやね。

映画を追う現実

この映画の構想が始まったのは2009年のことだそうで、ボルソナロ政権が発足するよりずっと早い。だからといって現政権に対する批判ではない、とまでは言えないが(プロダクションのあいだにだんだん映画の方向性が決まってくることもあるだろうし)、現政権を批判するために制作された映画ではないとは言えそうだ。どちらかというと、地方の人々、周縁に追いやられた人々、いないことにされている人々をないがしろにするすべての権力に対するコメントと捉えたほうがよい。

とはいえ、映画のなかで起こったことが、実際にブラジルでも起こっているようだ。おもしろいことに(おもしろがってはいけないが)、これが映画を作ったあと、現実がフィクションを追うように起こっているのだという。

邦題のサブタイトルにもあるように、物語中でバクラウは「地図から消えてしまう」が、実際にも、2019年、ブラジル政府はある環境保護地域を地図から消去したのだそう。地図から消した=政府にとって存在しないので、その地域はもう守られない。地図から消したからといってその存在が消えるわけではないのに。

また同じく2019年、ブラジル政府は公立大学への資金援助の30%をカットしているが(ヒェ…)、ブラジルの映画鑑賞者たちは、トラックがバクラウの学校の前に大量の本を捨てていくシーンを見て、まるで予言のように感じたようだ。トニーJr.はこれを村人たちへの贈り物のように言っていたが、その本はいったいどこから持ってきたのかってことだよね…。

ボルソナロが大統領になる前から、ブラジルにおける芸術活動はかなり厳しくなっているそうで、政府の意向にそわない映画は撮るのが難しくなり、シネマテークは政府の介入でプロのフィルム管理者がクビになり、代わりに映画のことなんか全然分かっていないような人が投入され、「軍事映画祭をやれ」などと言われているらしい。シネマテークにフィルムを預けるのは危険なので、フィルムメイカーたちは撮った映画を自宅で保管している有様だとか…。政府からの助成を受けて制作されたメンドンサ監督の『Neighboring Sounds』は、助成したぶんの資金を返せと言われているようだ。こないだのあいトリ騒動を思い出してしまう。

キャラクターと配役

ソニア・ブラガ(ドミンガス医師)やウド・キア(マイケル)といった国際的に活躍する俳優たちもすばらしいのだが、やはり『バクラウ』の白眉はルンガとそれを演じたシルヴェロ・ペレイラだろう。ルンガに助けを求めてきたパコッチと顔を合わせるシーンではチンピラ程度にしか見えないが、正装で現れるときには只者じゃないオーラをぎゅんぎゅん出していてちょうかっこいい(語彙力…)。

この物語の鍵となるキャラクターを演じるのが、シルヴェロ・ペレイラなのは偶然ではない。ペレイラは演劇・映画制作に携わるクィアな人々に関心をもっていて、クィア俳優たちによる劇団「As Travestidas」を主宰している人物なのだ。彼自身、ジゼル・アルモドバルという名前でドラァグ・クイーンとしても活動している。カンヌ映画祭ではジゼルとしてレッド・カーペットに現れていた。殺人マシーンのようなルンガを演じたとは思えない、すてきな笑顔がまぶしい!

第72回カンヌ映画祭での『バクラウ』俳優陣たち

バクラウがさまざまなマイノリティの人々にとっての避難所、新たなるキロンボとして描かれていることについてはすでに述べたが、こうした性的マイノリティの現場にいるペレイラがルンガ役に抜擢されていることが、バクラウの物語に厚みを加えている。ちなみにペレイラは、ボルソナロ政権のもとでマイノリティの権利が剥奪されてしまうことを懸念し、「もし必要になれば、わたしたちは今まで勝ち得てきた権利を守るために〈バクライズ〉しなくてはならないかも…」とまで言っていて、ちょっと不穏だがそう言いたくなるのもわかる。

ルンガのキャラクターについては、監督二人とペレイラでかなり細かいところまでいろいろと話し合ったうえで決めているそうで、映画では描かれていないバックストーリーがたくさんあるそうだ。ペレイラも「ルンガの過去を扱った続編が出てほしい!」と語っている。しかし個人的には、そうした背景が直接的には描かれず、ただ示唆されるのみであるというのが、『バクラウ』の鑑賞経験を豊かにしている要素の一つでもあると思うので、難しいところだナァ…もっとルンガを見たいという気持ちはあるけど…。

また、エキストラ的な村人たちのキャストには、ロケ現地周辺の村人たちが多く参加している。監督二人はその地域の人々に参加してもらう際、彼らのあり方・生き方を最大限リスペクトして、なにかを無理やりさせたり言わせたりしないよう、細心の注意を払っていた。そのなかにはコミュニティからのけ者扱いされている性的マイノリティの人々もいて、3か月の撮影後、彼らは「これまでの人生でこんなふうに尊重されたことはなかった」と監督に伝えたのだそう。架空の村であるバクラウが、撮影するうちにほんとうにマイノリティの避難所になっていたのだ。


というわけで、片手間にインターネットで調べた限りではあるが、『バクラウ』について分かったことを書いてみた。完全に解説できたとは思わない。でも、6トラックのうち4トラックぶんくらいになれば幸いである。

個人的な好みだが、南米の映画はめちゃめちゃおもしろいので、どんどん日本配給してほしいし、その背景についてもどんどん語ってほしい。配給会社さん、つぎブラジル映画を配給するときはぜひ専門家の解説やコラムを掲載したパンフを作ってくださいね!

おまけ

日本公開日のメンドンサ監督のツイート
「日本の友人たち、そして友人の友人たち、わたしたちの映画『バクラウ』は今日公開です! ようやく日本のシネフィルたちにお届けできると知ってうれしいです。とくに、ルンガがいつか漫画化されるのか尋ねられた後だとね。どうなるかな? ありがとう!」

だれかルンガの漫画を描いてくれ~~!!!!

参考資料

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あったかもしれないルネサンス工房の姿——『調和と服毒』感想

世の中の情報の9割をツイッターから得る女なので例によってツイッターで知ったのだけど 、ラファエッロ工房を舞台にした演劇を上演しているらしいと聞いて、千秋楽に飛び込んだ。劇団Ammoによる『調和と服毒』だ。

オフィシャルサイトによると、この劇団は「『とおくでいきるあなたは、そこでうまれたわたし』をコンセプトに、日本人にはあまり身近でないものごとを通して、現代の日本が抱える社会的ジレンマを浮き彫りに」しているそうだ。過去作の情報を見てみれば、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争、ブラジルのスラム街のサッカーチーム、イスラム原理主義、デュシャンの『泉』論争、ポル・ポトの学生時代…と、バラエティ豊かなテーマに驚かされる。毎回すごい量のリサーチが必要になるだろうな、大変だな…。デュシャンのやつも観たかったわ…。

このたびの新作『調和と服毒』は、ヴァチカン宮殿の装飾を一手に引き受けるラファエッロ工房を舞台にして、「美とはなにか」を問う意欲作。ミケランジェロやセバスティアーノ・デル・ピオンボといった強力なライバルがドンドコ出てくる16世紀はじめのローマにあって、だれよりも美しい絵を描くにはどうしたらよいのか。思い悩むラファエッロのもとに、弟子の一人が描いた下絵が突き刺さる。観るものに衝撃をもたらすそれは、はたして「美しい」と言えるのか? 言えるのなら、それはなぜか?

とはいえ、美についての話はすでに『調和と服毒』を鑑賞した人々によってさまざまな感想が挙げられているので、ここではこの演劇が「おお~すごいルネサンスっぽい!」と感じられる所以となっている(とわたしが思う)、「工房での議論シーン」と「芸術家たちのライバル関係」という視点から感想を書き起こしてみたい。

まるで対話篇の再現

あらためて言うまでもなく、「美とはなにか」という命題は古来から何度も何度も議論のテーマになってきた、永遠の問い。もちろん美の定義は流動的で、その時代・地域によっておおいに変わるものなので、はっきりした答えは出ないのだが、それでも人はこの大いなる問いに果敢に挑んできた。

それにしても、徐々に白熱する議論のなか、「美とはなにか?」「美とは衝撃である!」「美とは優しさである」「美とは神である」「美は到達しえないものだ」といったセリフが飛び交うさま、わたしなんかコレ見たことあるぞ…。最初は「ゼミっぽいな~」と思っていたが、おそらくこれは「対話篇」風だ!

16世紀イタリアでは、あるテーマについて議論するような本を書くとき、「複数の架空の登場人物が議論している」という体裁をとる書き方が流行していた。これを対話篇とよぶ。イタリア語ではディアーロゴ(dialogo)と言うが、必ずしも2人の人物によって会話が進むわけではなく、4、5人が入り乱れて議論が発展する場合もある。もちろんこうした対話篇は16世紀イタリアに固有のものではなく、たとえば古代ギリシャの哲学者プラトンの著作なんかそのほとんどが対話篇形式で書かれている。

日本語訳もされている16世紀の美術論で対話篇のかたちを取るもっとも有名なものとしては、ロドヴィコ・ドルチェというヴェネツィアの著述家が書いた『アレティーノまたは絵画問答』が挙げられるだろう。これは、フィレンツェの美術愛好家ファブリーニ君が素朴に「ミケランジェロは最高だな~」と言っているところに、ヴェネツィアの論客ピエトロ・アレティーノ殿が「おまえはミケランジェロ以外の画家を知らんのか?」と殴りこんできて、ラファエッロやティツィアーノの話をしているうちにファブリーニ君が論破されてしまう、というアンチ・ミケランジェロのヴェネツィア派にとって都合がよすぎる本だ。

ドルチェ『アレティーノまたは絵画問答』のわりと冒頭あたりの会話

実際の文面を読んでみると分かるが、演劇の台本のようにセリフのみで構成されており、それでもって「ミケランジェロが疑問の余地なく通暁した素描に関して…」「ミケランジェロの卓越性は…」と論じているところを見ると、『調和と服毒』でラファエッロ工房の重要な要素となっていた「パラゴーネ」を彷彿とさせる。

「パラゴーネ(paragone)」は本来「比較」をあらわす単語で、「芸術比較論争」などとも訳される。要は、絵画と彫刻のどちらが優れているのか、素描と彩色ではどちらか、詩と絵画では、絵画と音楽では…とさまざまなものを比較してその特性をあぶり出す議論一般をさすことばだ。なので、劇中で使われていたように、「ラファエッロの絵のどこが優れているのか」といった議論には本来使わないことばだろうとは思う。しかし、こうした議論の時間に確かなリアリティがあるのは、ルネサンス期というのは、絵画(というか美術一般)が手仕事から知的創造へと移り変わっていく時期だったということがあるだろう。

議論の場としての工房とアカデミー

ラファエッロの工房で来る日も来る日も美術についての議論が行われている、という設定はとても面白く、かつ現実味がある。というのも、16世紀は史上初めて美術アカデミーが登場した時代でもあるからだ。

一応、ちゃんとした組織としての美術アカデミーは1563年に設立されたフィレンツェのアカデミア・デル・ディセーニョ(素描アカデミー)を待たねばならないが、それまでにも似たような試みはちょくちょく行われていた。たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチは、ミラノで弟子や追随者を集めて学校のようなものを作っていたといわれる。この「学校」がどのくらい組織的だったのかは分かっていないが、絵画のテクニックを伝授するのみならず、絵画にとって重要なこととは何か議論する時間もあったことだろう。

また、フィレンツェの彫刻家バッチョ・バンディネッリも、若い芸術家を教育する「学校」を作っていたことが知られている。「ローマのベルヴェデーレ宮にあるバンディネッリのアカデミー」と題された版画が1531年に制作されているため、どのような場だったか多少想像しやすい。どうやらこのアカデミーは、1523年に教皇クレメンス7世によってローマにアトリエが与えられた際に誕生したようだ。

アゴスティーノ・ヴェネツィアーノ《バッチョ・バンディネッリのアカデミー》1531年

このような16世紀前半の環境にあって、アカデミーよろしく芸術に関するさまざまな議論がラファエッロの工房でも展開されていた、という設定はかなり信憑性があるし、画家たちに知性と教養が求められた時代、このような議論の場なくしてラファエッロ工房の成功はありえなかっただろうと思わせる。っていうかラファ工房でそういう議論が行われていました、みたいな研究がわたしの知らないとこでもうあったりする? 2020年がちょうどラファたん没後500周年なのもあっていろいろ新しい論集とか出てて、正直ぜんぶ追いかけられてないんだよな…。

ただし、『調和と服毒』劇中のラファエッロ工房では「この絵画作品の優れているところは…」という議論が行われていたが、 バンディネッリのアカデミーはむしろ、ヌードデッサンをしたり人体の解剖学的な知識を勉強したりといった、実技に近い知識を養う場だった。『調和と服毒』風の美学的な議論をおこなう場は、どちらかというとプラトン・アカデミーに近いのかもしれない。プラトン・アカデミーは15世紀フィレンツェの哲学者マルシリオ・フィチーノが立ち上げた組織で、プラトンの『饗宴』の再現を目指してみんなで古代風のコスプレをしてさまざまな命題を議論していた場だ。アッでもコレも対話篇の再現じゃん。Ammo、プラトン・アカデミーなのでは?(極論)

いずれにせよ、16世紀イタリアは工房の営みとアカデミックな議論が限りなく近づいた時代であった。そんなときに、時代の最先端をゆくラファエッロの工房で、朝な夕な芸術論が交わされていたという話は、とっても「それらしく」思われた。

ルネサンスのライバルたち

ところで、劇中で姿は見えずとも圧倒的な脅威としてあらわれるミケランジェロとセバスティアーノ・デル・ピオンボのコンビは、実際にラファエッロにとって頭の痛いライバルだった。

ラファエッロはのちにアカデミック絵画のお手本として祀り上げられていく運命にあるが、なぜラファエッロがお手本になったのかという点について、以前古典絵画についてのシンポジウムに行ったときに「ラファエッロの絵画は素描も彩色も程よく真似しやすい」という事情があるのでは、という話が上がった。実際、伝記作家ヴァザーリも「神の領域にあるミケランジェロを真似しようとしてもどうせ追いつけないのでムダ。真似するならラファエッロのやり方にしなさいね」と書いている。したがって、ラファエッロの強みがその素描と彩色が優れて調和しているというバランス感覚にあることは同時代から知られていた。そんな彼にとって、素描めちゃうまのミケランジェロと彩色めちゃうまのセバスティアーノがタッグを組んだ絵画は、かなりの脅威としてうつったにちがいない。

絵画における闇夜の表現がローマでは新奇な着想であった点も16世紀当時の議論に基づいている。このあたりのラファエッロVSミケランジェロ+セバスティアーノの事情は、拙著『ルネサンスの世渡り術』第10章に詳しく書いたが、Ammo主宰の南慎介さんはこれを参考にしてくださったそうで、著者として感激である。自分が紹介した美術史面白話をもとに素晴らしい創作物が制作されるなんて、こんなうれしいことある? マジで美術史面白話をどんどん世に紹介していこうな…。

このあたりのことをより詳しく知りたい人は、拙著のほか、最近翻訳が出たローナ・ゴッフェン『ルネサンスのライヴァルたち』を参照するときっと楽しい。英語が読めるひとはロンドン・ナショナル・ギャラリーで開催された「ミケランジェロ&セバスティアーノ」展カタログも面白く読めると思う。カタログの表紙が《ヴィテルボのピエタ》だぞ! いずれも安い本ではないので、手を出しにくいな~という場合はお近くの図書館にリクエストを出してみよう。

また、『調和と服毒』冒頭でヴェネツィアのベッリーニ工房からやってきたロレンツォが、ラファエッロ工房の徒弟たちに作品を「ゴミ」と言われてしまうシーンもよい。この時代、都市による美術の好みのちがい・美術観のちがいはかなりハッキリしていて、ヴェネツィアで称賛されたものがローマではゴミとなるというのはとてもありそうな話だ。実際、17世紀のものではあるが、ある画家の作品について「ローマでは屑といわれるかもしれませんが、ヴェネツィアでは非常に高く評価されていますよ」と書かれた美術商の手紙も残っている。ライバルなのは人物同士だけでなく、都市間のライバル関係もあったのだ。

さらに、劇中でキージ邸の壁画問題に有用な策を出すのがマルカントニオ・ライモンディに設定されているのも面白い。ラファエッロの下絵に基づく版画を多数制作して名を馳せたこの人物は、デューラーの版画をパクった罪で著作権侵害を訴えられたエピソードももつ、やり手の版画家だ。トリックスター的な性格がよくあらわれる役どころになっていて非常によい…。ちなみに、ラファエッロ没後の1524年、彼の一番弟子だったジュリオ・ロマーノの原画に基づいて、古代ローマの神々がさまざまな体位で性行為におよぶ版画集『イ・モーディ』をライモンディが出版していることを知ると、よりニヤニヤできる(もちろん禁書になった)(初版はカトリック教会により撲滅されて残っていない)。

もう一つトリビアを書いておくと、キージ邸の装飾を制作していた頃のラファエッロは、女がいないと仕事も進まないと駄々をこね、キージもついに仕事場に愛人を連れ込むことを許したという話がある。例によってヴァザーリが語る逸話なのでどこまで本当なのかは分からないが、工房の女性画家がキージ邸に出入りしているのを見た人が「愛人を連れ込んでる!」と勘違いして噂になって…みたいなバックストーリーを勝手に想像してしまった。

蛇足:ちょっとだけツッコミ

完全に蛇足でしかないが、ちょっとだけ危なっかしいかな~と思ったところを挙げておこう。

まず、キリスト教の神と古代ギリシャ・ローマの神々が、どちらも同じ「神」と概念で把握されている気がする。ルネサンスは古代復興の時代だとはいえ、キリスト教社会なので、基本的に「神のごときミケランジェロ」とか言ってるときの神はキリスト教の神である。ルネサンス人の認識では、「古代の人々は誤った神を信奉していたがその哲学や美学には真なるものがあり、それは正しい神を信仰するキリスト教社会に生きる我々が受け継ぐことで、より真実に近づける」というように捉えられていた。

したがって、「オリオンをサソリの毒で殺せる=人間にも神殺しができる」という話はスリリングで面白いのだが、それをそのままキリスト教絵画に適用するとちょっと危うい感じがある。神話主題ならいいんだけどね。

また、絵画における美を議論しているところで、レオナルドの《最後の晩餐》が美の体現ではない論拠として「あれは卵で描いた絵だし、今はボロボロだ」との意見が出る場面がある。たしかに壁画に卵テンペラを使うのは掟破りなのだが、卵テンペラ自体は油彩画がメジャーになる前はもっともよく使用されるメディウムの一つだったので、卵だからと非難されるのはあまり現実的でない。

さらに、ミケランジェロやレオナルドを超える、というモチベーションは分かりやすいが、ミケランジェロはいいとしてレオナルドは16世紀ローマにあってそこまで存在感はなかったように思う。15世紀末、システィーナ礼拝堂装飾のためにフィレンツェの画家たちがローマに大量派遣されたときにもレオナルドは派遣隊から漏れているし、かの地で名前は知れわたっていてもラファエッロの脅威にはならなかっただろう。

まあでも、これらは些細なことだ。個人的には、16世紀イタリアで盛り上がっていた美術批評が、21世紀日本で説得力をもって物語となっているこの事実がたまらなくうれしい。この演劇を作り上げた皆さんに最大の賛辞を。

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あいちトリエンナーレ2019鑑賞記

あいトリが燃えている。燃えているが、それはさておきとりあえず一鑑賞者として楽しみたい。というわけで、ちゃんと前売り買って行ってきた。

何を隠そう、わたしは初回から毎回あいトリに足を運んでいる皆勤賞ビジターなのだ。以下、今回とくに印象に残った作品についての記録。


豊田エリア

豊田にある作品がなかなか攻めていて面白いと聞いていたので、まず豊田から行こうと鶴舞線に飛び乗った。駅にあいトリのインフォがあり、おすすめ鑑賞コースが記載されたマップをもらうことができる。

豊田市美に行った日はものすごく暑くて、美術館の敷地内にキッチンカーで出店していた「フレイトレシピ」というお店の手作り甘夏ドリンクが最高に美味しかった。三重のご夫婦で営んでいるオーガニックフードのお店だそうだ。

トモトシ《Dig Your Dreams.》

トヨタマークの遺跡が現れた
トヨタの器

豊田市といえば自動車メーカーのトヨタ。豊田市の地中からはトヨタ関連の遺物が大量に発掘されるわけだが、その発掘品と発掘調査の様子をおさめた映像が展示されている。

もちろん、発掘云々は完全にフィクションだし、展示されているものは滑稽で笑えるのだが、それでも、この企業と土地との結びつきがいかに強固で、いかにそうした神話が創出される土壌が整っているか、ということに思いを巡らせることができる。歴史が創られるって怖いよね。

しんかぞく《レンタルあかちゃん》

デジタルツールを通して生まれなかった赤ちゃんの子守りをするアクティビティ。会場が複数箇所にまたがっており、スタンプラリー的な楽しさもある。

手順の説明をもらってミッションをクリアしよう!
けっこうしっかりしたアクティビティ

自分が何のお世話をしているのかは作品の最後に明らかになるのだが、「今までキャッキャと蹴り回して遊んでいたボールが、じつは胎児の頭でした」的な後味の悪さがあり、強烈な印象を残す。鑑賞後、水子供養で知られるという挙母神社に行った。ちなみに挙母神社の隣には結婚式場があったのだがそれはどうなんだ。

レンタルしたD君の真の姿

ホー・ツーニェン《旅館アポリア》

親愛なるツーニェン、

古くから残る旅館全体を使ったインスタレーション。多くの人が賞賛しているのですでに言うことはない気もするが、やっぱり言っておこう。豊田エリア随一のクオリティの作品だった。

旅館のさまざまな部屋にしつらえられたスクリーンが、戦時中に当該旅館が負った役割と責任を映し出す。この旅館はこの地域から旅立つ特攻隊員たちを泊めた場所で、その事実を多様な側面から語り直すことで、旅館の歴史、日本の歴史、アジアの歴史が交差する劇場として不気味な空間を演出しているのだ。

2階がとくに秀逸で、何重にも張られたスクリーンが互いに透過し、重なり合い、この場の重層的な歴史が浮かび上がる。屋敷に入る前と出た後では、建物の佇まいも変わって見えるほどに、衝撃的な作品だった。

ではまた。

タリン・サイモン《公文書業務と資本の意思》

国際的な条約が結ばれるとき、その机には象徴的な花が置かれる。これは、そのようなテーブルに置かれたフラワーアレンジメントを再現して撮影した写真シリーズだ。

解説とともに見てはじめて理解される被写体
いちばん左の花がぜんぜんないやつはカストロ政権時のキューバの何かだったような

こうした条約の影響は、しばしば締結された当事者の国々とは異なる国まで及ぶ。展示室に用意されたカードを読み、条約の背景や余波を知るにつけ、さまざまな国の国民の生活にダイレクトに影響する決め事が、いかに閉ざされた場で少数の人間によって決定されているか痛感させられる。それぞれのフラワーアレンジメントが象徴していたことは実際なんだったのか、花々が沈黙のうちに訴えているように見えてくる。


愛知芸術文化センター

あいトリのメイン会場。「表現の不自由展」の問題により、展示を中止している作家も多い。鑑賞者としては残念だが、作家にその権利はあるだろう。

加藤翼《Woodstock 2017》《2679》

とってもやりにくそう
足の引っ張り合い

2つ作品が出品されていた。前者は、4人の白人男性によるバンドがアメリカ国歌を演奏している様子をおさめた映像作品。それぞれの演奏者の腕はロープで繋がれており、ギタリストがなにか弾こうとするとドラマーの手が不自由になり、ドラマーが音を出そうとするとキーボードが鳴らせなくなる、というとても不自由な状態だ。とてもじゃないがハーモニーは奏でられない。

後者の作品も基本的には同じアイディアなのだが、今度は和楽器が使われている。筝と三味線、和太鼓のアンサンブルで、名古屋はオアシス21の屋上で展開されたパフォーマンスだ。やはりそれぞれが互いの足を(手を?)引っ張り、とてもやりにくそうに演奏している。

一般に、音楽は人が集まる場で力を発揮する。一体感を強め、「みんなで何かした」という気にさせる。だが、それは本当に互いに団結しているのだろうか?

永田康祐《Translation Zone》

シンガポールのマレー語・英語・中国語・タミル語が混在する言語環境をきっかけに、アジアにおけるミックス文化や変遷・多様化のプロセスをたどる映像。そうしたいろいろな地域の文化が、ほかの地域の文化に吸収され、当地で実践しやすいように改変され、いわば「魔改造」されることによって、他地域の独自の文化となっていくのは面白い。そのようなあれこれが、めちゃくちゃなアジア料理を作る映像をバックにボイスオーバーで解説される。

話題は主に言語と料理をめぐって展開されるが、とくに興味深く感じたのはGoogle翻訳で中国語がまったく逆の意味の英語に翻訳されてしまった話。Google翻訳はユーザーの修正によって学習するので、大衆が決めた意味がそのことばの本来の意味を退けてしまうのだ。

この映像を観たあと猛烈にパッタイが食べたくなった。米粉麺の代用品としてうどんを使った日本のご家庭風のやつ。というわけで夕飯に「マイペンライ」というタイ料理屋に行ったが、パッタイは本格派だった(当然だ…)(とってもおいしかったです)。

パッタイはおいしかった

澤田華《Gesture of Rally #1805》

何気ない写真に映った謎のオブジェについて、形態と色彩からその正体をさぐるプロジェクト。「絶対にそれじゃないだろ!」という可能性がいろいろ提示されて愉快なのだが、結局なんなのか分からない。

何の変哲もないオフィスだが、右下の観葉植物の上にある青い物体はなんなのか
拡大写真
色彩と形態の両方からさぐる

でも、わたしたちが何百年も前の絵画を観て、よく分からないものが描いてあるとき、おこなうプロセスはおそらくこういうものだ。形態と色彩から特定を試みる。その結果得られた結論は、当事者からすると笑ってしまうくらい滑稽な間違いかもしれない。


名古屋市美術館

こちらも展示中止中の作品が多かった。余った時間で常設展示も観れたぞい(あいトリのチケットで入れる)。鑑賞後には大須観音まで足を伸ばして、「鯛福茶庵 八代目澤屋」というお店で鯛焼きを食べた。疲れた頭脳に糖分のプレゼント。

桝本佳子《五重塔/壺》ほか

陶芸作品。壺や皿にさまざまな有機的モチーフが三次元的に突っ込まれている。この説明ではよく分からないだろうから、写真を見てほしい。

雁が突っ込まれている壺シリーズ
2Dと3Dの邂逅

とくに気に入ったのは、皿の絵付けの図案と3D化しているモチーフが一体化しているもの。あいトリは毎回政治的・社会的主張の強い作品が多いが(そしてそういう作品も好き)、こういった職人のわざや手仕事の力強さを感じさせる作品もとてもよい。

とはいえ、展示室前に掲げてあったあらゆる「フォビア」への警告文は、個人的な「嫌い」に関して他人に過剰な配慮を求める社会に対する皮肉だろう。この注意をみんなマジメな顔して読んでるのがまたウケる。

なんなんだ

カタリーナ・ズィディエーラー《Shaum》

イギリスのバンド Tears for Fears の1984年のヒット曲「Shout」をセルビアの非英語話者に聴いてもらい、その歌詞を書き取ってもらう、という映像。

もちろん正しくは聞き取れないし、知っている単語に当てはめていく作業になるのだが、やがてその歌詞は、英語でもセルビア語でもないものになってゆく。でもそれで歌ってもらったらわりと Shout っぽいんだよな。


四間道・円頓寺

あいトリ恒例のまちなかエリアはこのたび長者町から移動して円頓寺商店街へ。「長者町くん」はどうなってしまったのだろう…。円頓寺近辺はオシャなカフェやギャラリーと昭和感がすごい商店が共存していてなかなか面白い空間となっていた。

お昼は、円頓寺商店街から少し奥に入ったところにある「The Corner」というお店で手作りハンバーガーを食べた。日曜ということもあってめちゃくちゃに並んでたけど、その価値がある味だった。

チェーンじゃないお店のハンバーガーってときどき食べたくなるね

弓指寛治《輝けるこども

2011年4月に起こった痛ましい事故を題材にしたインスタレーション。クレーン車を運転していたてんかん持ちの男性が発作を起こして事故となり、6人の小学生が犠牲となったのだ。ぜんぜん知らんかった。震災直後だしあまり報道されなかったのかな。

インスタレーションでは、鑑賞者はまず新聞紙に描かれたたくさんの絵画と淡々と語られる背景の解説を通して、被害者と向き合うこととなる。情報に満ちた狭い廊下を縫うように歩いていくと、つきあたりでUターンとなり、つぎは加害者についての情報が提示される。

被害者パートも胸をえぐる内容なのだが、秀逸なのが加害者パートで、ルースな状態のカンヴァスに描かれた車の絵が上から吊るされており、鑑賞者はこれを暖簾のようにめくりながら進まねばならない。みずから車にぶつかってゆくという動作は、ヴァーチャルに轢かれる体験をうながす仕組みになっていて、本当にしんどい。

しかも、その被害者パートと加害者パートを唯一つなぐ覗き穴は、車の運転席からの眺めとなるのだ。まじでよくできている…。

写真撮影OK・SNS投稿OKと書いてあったが、ちょっと無防備に拡散するのが恐ろしく思われて、写真を撮ることができなかった。慰霊のモニュメントにふさわしい、力強い作品。

毒山凡太郎《Synchronized Cherry Blossom》

ういろうに捧げるモニュメント。青柳総本家の担当者へのインタビューをおさめた映像と、ういろうで作られた桜の大木が展示されている。展示室にはアーティスト・ステートメントが貼ってあって、ういろうが好きだから作った、みたいなことが書いてあったが、本当に好きで作ったのか???(べつにステートメントには本当のことを書く必要はない)

映像がすばらしくて、1964年の東京オリンピックにともなって開通した新幹線が、ういろうを名古屋名物の座に祀り上げた経緯が語られる。新幹線が通るようになって都市の再開発が進んだこと、2027年のリニア開通に際しても都市の発展が期待されていることが語られるが、そのバックで映し出されるのは、満州や樺太など旧日本軍占領地だった地域のいまの様子だ。それも、地名を明示するキャプションがあまり目立たずさりげなく出ているので、しばらく名古屋の風景だと思っていた。

リニア開通したら、その駅周りもこういう風に「再開発」され、風景も均一化されるのだろうか。そのとき、青柳ういろうの運命やいかに。

葛宇路《葛宇路》

偶然自分の名前の最後に「路」という字が入っているのを利用して、自分の名前を書いた標識を公道に無断で立てたら、その道路の正式な名前として定着してしまった、という経緯を資料と映像で展示している。

自分の名前を道路につけると…
オンラインマップに登録されてしまった
いろいろなところに現れる葛宇路

一個人が立てた標識の名前が、Googleマップに現れ、商店の住所に現れ、郵便物の宛先に現れる様子はコメディでしかないのだが、先に愛知県美で観ていた永田作品を思い出すと、やはりモノの名前やその内実を定めるのは大衆なのかと思わざるを得ない。

愉快で笑える作品だけど、こういうことも日本でやったら他人に迷惑かけるなって叩かれるかしらネェ…。

円頓寺もあっという間に葛宇路へ変身

梁志和(リョン・チーウォー)+黄志恒(サラ・ウォン)《円頓寺ミーティングルーム》

この地域に伝わる古いスナップ写真と、そこに写った無名の一般人の姿を模した写真作品の展示。どんな事情で写真に写っているのかも知らない、そもそも誰かも分からないような人を、写真から取り出して再活性化させる作品だ。

右端に写るミニワンピの女性や…
写真やや左に写る四角いハンドバッグの女性が…
…写真で再現される

取り出された人びとはほとんど後ろ向きだし、メインの被写体ではないため、一人ひとりの背景など分かろうはずもない。しかし作品中ではその時代のこのような年齢・性別であればこういった事情があっただろう、というようなそれらしいバックストーリーを作ってやることで、ともすると見過ごしがちなこまごまとした人物に存在感を与えている。そうして再現された写真作品は、なんだかその人物の亡霊のようだ。

着付けをする女性
ここだけ取り出すと不思議なポーズだ

作家の二人は香港の方らしく、事態がよい方向に進むよう願ってやまない。


あいトリ改善点の提案

このたびあいトリ2019を回ってみて、「ここはこうしたらよいのに」と思うことがいくつかあったので羅列してみる。

2日間チケットとか3日間チケットをくれ

会場が名古屋と豊田にまたがっているということは1日で全部は観れないわけで、1日券とフリーパスしかないのは閉口ですよ。しかも公式サイトに全部観るには2日間は必要って書いてあってそれってどうなの? 前回のあいトリでは各会場1回ずつ回れるチケットがあって、アレは良かった。復活させて。

ガイドブックを復活させてくれ

無料アプリが出たのはいいし活用させてもらったけど、紙の公式ガイドブックに優るものではなかったように思う。ガイドブックはねェ〜〜周囲のグルメ情報とかもあって便利だったんすよ〜〜〜あとフェスみたいにどういう風に回ったら効率的か考えるのが好きなので〜〜〜。

QRコード集をくれ

アプリでやるなら、作品のパネルにあるQRコードをまとめた冊子が欲しかった。人気作品の解説パネルにみんなが群がるなか、人をかきわけてパネルにスマホかざすの、けっこう心理的障壁があるんですよ。手元にQRコード集があればいいのに…という感じだった。アナログですが…。

お気に入り機能とかもくれ

アプリに関してさらに言えば、作品をお気に入りとして登録する機能や、作品に関して思ったことをメモする機能があればより良かった。ガイドブックがあったときは、感想を直接書き込んでいたので。こうした評価や感想は自分だけが読めればいいので、SNS的にみんなの評価が読める機能とかはいらないです。


観たかったけど観られなかった作品

今回は「表現の不自由展」展示中止にともなって、それに反対する作家が多数展示を取りやめていたり変更したりしているわけだけど、とくに観たかったのに観れなくて残念だった作品に、レニエール・レイバ・ノボ《革命は抽象である》と、藤井光《無情》がある。

とはいえ、ノボ作品は展示変更の仕方もなかなか良くて、もともとの状態で観られないのは残念だけれど、作家の知性が光る内容になっていた。

覆われた作品たち
新聞紙にくるまれ、本来のかたちで観られない作品群
感慨深い紙面

振り返ってみると、日本の作家やアジアの作家に印象深いものが多くあったように思う。でもそもそも出品作家がそのエリアからの人が多いのかもしれない。

あいトリ好きなので3年後もぜひ開催していてほしいが、こういろいろ拗れてしまっているとどうなるか分からんな…。

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分類することの暴力

映画『アメリカン・アニマルズ』を観た。最高。

物語は実際に起こった事件に取材していて、事件の当事者も登場する半分ドキュメンタリー・半分フィクションなのだが、退屈な日々を持て余す大学生たちの青春映画かと思えば、打って変わって痛快犯罪ものへとすり替わり、終盤は彼らの心情に迫るサイコスリラーの趣きを見せる。最高。こういうジャンルに縛られない、既成概念の枠外にある創作物が大好き。

逆に言うと簡単に分類されるものはどちらかというと苦手だ。というか、分類すること自体にある種の嫌悪を感じる。

とはいえ美術史なんていう学問に携わっているので、作品を分析してあるカテゴリーに分類する作業からは逃れられない。これは古典主義、これはマニエリスム、これはレオナルド派。でもやっぱり面白いと感じるのはそうした分類をすり抜ける、カテゴリーの「隙間」にあるような作品なのだ。ネーデルラントの画家なのに作品はイタリア風とか、あるいは、絵画なのに一部立体になっているとか、建築に見立てられた書物とか。

とくに創作物中の登場人物に関連づけられる「属性」にはひときわ嫌気がさしている。美少女、ギャル、ヤンキー、DQN、お嬢様、オタク、とかとか。べつにそういうキャラクターがいることは気にならないんだけど、その一言だけでせっかくの大事なキャラを説明させていいのかともったいなく感じてしまう。

最近あまり見なくなったけど、ツイッターで漫画を投稿している人が、「ギャルとお嬢様が仲良くなる漫画」みたいな説明つけてるのもモヤリとしていた。そんなに魅力的なキャラを、「ギャル」というたった3文字であらわしてしまっていいの? いや本人的にはいいのかもしれんが…。あと『女王陛下のお気に入り』を「クレイジーサイコ百合」と説明している人が多いのもビックリしてしまった。この映画に登場する女性たちの鬼気迫る関係性は、もっとことばを割いて表現してほしかったナ〜(文字制限が厳しいツイッターで感想を漁るのが悪い)。

思えば、分類することに疑問を持ち始めたのは、まだ京都にいた頃、韓国の劇作家ユン・ハンソル氏の作品『国家』の制作に関わったときだったように思う。わたしはユンさんと役者さんのあいだのコミュニケーションを補助する通訳としてこれに携わった。

制作の現場で、ユンさんは役者さんたちそれぞれの個人的な話を聞き出していた。子供の頃の思い出、いちばん好きな本、いま抱えている悩み、などなど。こうしたディスカッションで出た話題をもとに、本番のパフォーマンスでは彼らそれぞれがみずからの人生を語る。しかし役者さんたちはそれを同時に語り、音声としてはざわざわとしたしゃべり声の集積になってしまうので、聞いている観客は最初彼らの話を聞き分けて理解することができない。彼らが別々に語り始めて、はじめて観客は声のかたまりからそれぞれの物語を取り出して、それらが唯一無二のものであると認識できるのだ。

わたしたちは皆、別様の人生を歩んでいる。学校も仕事も恋愛も結婚も生き方も死に方も、一人ひとりがユニークな存在だ。しかし、国は「国民のスタンダードな人生の歩み方」を設定し、それに沿って社会システムを構築する。それはつまり、人をある種のカテゴリーに分類してしまうことにほかならない。

たとえば14歳の女の子なら、お父さんとお母さんがいる家から毎日中学校に通っていて、クラスの男の子が気になりつつ、高校受験について悩み始めてるって具合でしょ、というような。しかし当然ながら、その内実は必ずしもそうではない。両親が離婚してて家にいるのはお父さんだけとか、エスカレーター校だから高校受験は心配ないとか。その程度ならいいのだけど、家庭が上手くいってなくて学校に全然行ってないとか、同性愛者で男の子には興味がないとか、ちょっと込み入ってくると、システムに組み入れられないということがある。要は国から無視される。そうした一般的な分類からはみ出す部分は、なかったことにされる。

劇作品『国家』がテーマにしていたのは、およそこのようなことだった。国のシステムとは、人の個々の事情を切り捨てて、ある一つのタイプに押し込めるものだ、と。それが作品によってちゃんと表現として昇華されていたかどうかはちょっと疑問の余地がある(もっと時間をかけられたらよりよかったと思う)。でも、本番後にエゴサして「自分語りばっかり」というような感想を目にしたときは落胆してしまった。カテゴリーからはみ出す部分は、所詮「自分語り」なのか。

話がとっ散らかってしまったけど、一見なんなのか分からないもの、既存のカテゴリーに当てはまらないもの、スタンダードからはみ出すもの、そういったものを無理やり分類して安心するのではなく、そのまま受け入れる。そういうことを心がけていきたいなぁ、少しずつでも。

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美術と政治の深い関係──映画『ヒトラーvsピカソ 奪われた名画のゆくえ』

私がまだ学部2年生で、西洋美術史専攻必修科目である通史の講義に出ていたとき、先生が古典古代建築の三つのオーダーを説明しながら、次のようなことを言った。

「こういう建築様式が古代ギリシャ・ローマから来ていて、古典の伝統になっていくということを知っていると、大銀行の建物がなぜこういう古い様式で建てられているのかわかるでしょ。銀行側としては、すぐ潰れない、永続的で安定した印象を与えたいから、伝統的な様式を選択するわけ」

ふだん何気なく享受している建築、絵画、彫刻といった美術作品には、ただ見て楽しいオブジェとして以上の機能がしばしば期待されている。個人的には、そうしたイメージの読み解き方を身につけることこそ、西洋美術史を学ぶ意義と考えているのだけど、この読解の技術を学ぶと、美術とはかくも恐ろしい劇薬であることが自ずと見えてくるだろう。

その劇薬が極端な効果を発揮したのが、第二次大戦中のナチスの芸術政策。映画『ヒトラーvsピカソ』は、このナチスによる文化財押収とその余波を追う内容だ。イタリア、フランス、ドイツの合作ドキュメンタリーで、ナチスドイツがどのようにして占領地のユダヤ人コレクターたちの財産を不当に押収したか、またその返却がいかに遅々として進んでいないかが、歴史家や活動家、そして元所有者の子孫たちの口によって語られる。

詳しい内容は映画本編を観ていただくとして、ここでは全体的な感想をば。

これは予告編。

「VS」というほど戦ってない

タイトルをそのまま文字通り受け止めると、ヒトラーとピカソがどんなバトルを繰り広げるのか〜!? という感じが若干あるが、べつにこの二人は直接お互いを相手取ってバトルするわけではない(当然)。題に掲げられた「ピカソ」は芸術に携わる人々をあらわす比喩となっているのだ。

だいたい、映画に登場する芸術家/コレクター/画商側はそれほどナチスと戦わない。もちろん当時も反体制派の芸術家はいただろうし、反ナチの声を挙げた勇気ある人もいただろう。財産押収に最後まで抵抗する画商も紹介される。しかしこの映画がもっとも大きく取り上げるのは彼らではない。

むしろこの映画がフォーカスしているのは、体制に協力した美術関係者たちである。それは積極的に協力した者も、結果的にそうなってしまった者も含む。芸術家、美術史家、画商、批評家、コレクター。そういった人々もまた、ナチスの芸術政策や文化財押収についての責任からは免れえないということを物語っているのだ。

たとえば、ユダヤの血が入っているけれど、己の美術の知識を活かしてナチスの美術作品収集の助言者となった人。あるいはまた、表現主義的な作品に退廃芸術の烙印を押しながら、自分の懐におさめていた人。こうした人々の暗躍が、約60万もの美術作品が元の所有者から強奪されるという結果をもたらしたのだ。

このような人々を、芸術に対する裏切りだと軽々しく断罪することはできない。起きたことに対する責任はあるだろうけれども、もし協力を拒否すれば彼らに未来はないのだ。彼らと同じ立場になれば、ほとんどの人が同じような行動を取るだろう。

美術と政治の切っても切れない関係

パンフでは「美術に政治家が口を出すとろくなことにならない」などと言ってる人がいるが、歴史をひもとけば美術はつねに政治とともにあった。昔の王侯貴族が美術品を集めるのは、単に彼らが美術好きだからだけではない。美術作品を所有することは権力表象の一形態なのだ。

かつてルネサンス期の貴族や教皇が、作品を注文するのみならず、古代ギリシャ・ローマの美術作品を競ってコレクションしたのは、それを所有することが権力の誇示に直結したからである。ルネサンスが終わってバロックの時代になれば、彼らはルネサンス期の巨匠の作品を買い集めることに熱中するだろう。もう新たに生産されることのないモノを所有し、展示することは、強力なパワーをもつのである。

また、作品の政治性は作者の思惑とは無関係に発展することもある。フィレンツェに行けば、ミケランジェロの《ダヴィデ》を観ることになるだろう。もともとは大聖堂を装飾するために注文されたのに、時代の流れとともに共和制の象徴に変身し、さらにフィレンツェ政府が共和制から君主制になるときにはメディチ家のシンボルにされた、きわめて政治的な作品である。

美術作品の押収もめずらしいことではない。古代ギリシャの遺物を持ち帰った大英博物館や、ナポレオンの略奪品を収めるルーヴル美術館の話が有名だが、もっと古い例を挙げれば、フィレンツェのバルジェッロ美術館には、トスカーナ大公コジモ一世が押収した彫刻コレクションが並ぶ。必ずしも敵から奪ったものではなく、自らの側近さえも裏切りの疑惑があればすぐに処刑し、その所有物のなかからよい作品を奪って自分のものにした結果が、この豊かな彫刻コレクションなのだ。同時代人にとって、これらの作品は「大公に逆らうな」というメッセージも持ちえただろう。

また、去年の冬に国立西洋美術館で開催された「ルーベンス展」を見に行った人は、ルーベンスが画家であると同時に外交官でもあったことを覚えていると思う。彼は「外国の貴人のために絵画を制作する」という名目のもとヨーロッパを動き回ることができたし、イングランドとスペインのあいだに和平を結ぶ際には、彼の画家としての技量と名声がおおいに役立った。

例を挙げればキリがないが、美術と政治は切っても切れない関係にある。それは16世紀でも20世紀でも同じことだ。ナチスがどのように美術作品を利用したか、それは本編を観て確かめてほしいのだけど、少しだけ個人的に面白かったところを紹介してみたい。

イデオロギーと趣味

ナチスが進めた、前衛的な美術動向を「退廃芸術」と定め文明の堕落と位置づけたことは有名だし、この映画でもその話題は何度も出てくる。

面白いのは、ナチスの幹部がときに「退廃芸術」の烙印を押されたはずの美術作品を個人的に入手して保管していたことだ。なんだ、好きなんじゃんか。

映画中でも解説されるが、政治的な手段で支配層となったナチスはもとはブルジョワにすぎないので、まずは権威づけのためにいにしえの王侯貴族のふるまいを真似ようとする。かくしてゲーリングは森の中に狩猟のための館を建てて絵画で飾り立て、国内外のVIPを呼んではもてなすことになるのだ。そうなると、彼らが集める美術作品も、かつて王侯貴族が好んだような様式のものとなるわけだ。

もちろん、表現主義的作品に比べれば古典主義的作品のほうが理性や秩序を重んじるし、そうした要素が西洋白人の優位を謳ったナチスにとってイデオロギー的にも都合がよいという理由もあっただろう。いずれにせよ、古典主義的な作品は個人の趣味というよりはむしろ、イデオロギーに合致するから重宝されている。

その結果、本来アヴァンギャルドな美術を好んだナチス幹部は、表向きそうした美術を退廃と断罪しながら、プライベートでは自邸に堂々と飾る、といった現象が発生したのだ。

しかし、こうしたことはナチスのみに起こったわけではないだろう。16世紀後半のミラノの画家たちがこぞってレオナルドを模倣したり、同時期のフィレンツェの画家が同じようにミケランジェロを模倣したりしたように、美術を享受するほうもまた、パトロンならば過去の大パトロンを、コレクターならば過去の大コレクターを真似たのである。

たとえば、ルネサンス期ミラノにレオーニという彫刻家がいるが、彼は当時の芸術家としては破格の富を築いて、自ら美術作品をコレクションしていた。いま彼の財産目録を見てみると、彼が神聖ローマ皇帝のコレクションを模倣しようと頑張っていたのが明らかである。レオーニは一介の彫刻家にすぎないので、貴族階級には上がれっこないのだが、ふるまいだけでも近づこうとした彼の涙ぐましい努力が垣間見える。けれども、彼は本当に皇帝が好むような美術を好んでいたのか?

作品を集めることそれ自体に政治的な意味が宿ることを踏まえれば、単純に「は〜こういう美術が好きだったんやねぇ〜」という感想だけでは終わらないはずだ。

過去の出来事とあなどるなかれ

とはいえ、昔の話でしょ、と思う人もいるかもしれない。映画では、強奪された作品の返却作業はいまも進行中であることが示されるけど、それだって遠いヨーロッパの話でしょ、と。しかし、こうした美術と政治の話を他人事のように受け止めるのは、正直おめでたいとしか言いようがない。

映画中、ナチスが理想とした美術作品を取り上げた「大ドイツ芸術展」では、田舎の風景や農民たち、母子を描いた作品が多く展示されたことが解説される。去年の冬にBunkamuraで開催されていた「ロマンティック・ロシア展」のことを思い出してほしい。展示作品に似たものを感じないだろうか。

上に権力表象の一形態として美術を所有することがあると書いたけども、バンクシー(?)のネズミ絵を都が展示するとはどういうことなのか、立ち止まって考えてみてほしい。誰が描いたのかは分からないし、落書きなので押収とは言えないかもしれないけれど、本来の所有者/作者の意図しない形で政治利用されているところは同じだ。

おりしも現政権が天野喜孝と組んで新ウェブサイトを立ち上げたところ。美術と政治がどのように絡み合ってきたか知るには、うってつけのタイミングなのではないだろうか。

いっしょに観たい関連映画

ナチスの芸術政策、ひいては美術と政治をテーマにした映画は『ヒトラーvsピカソ』だけではない。この機会にいろいろ観てみよう。

カーティス監督『黄金のアデーレ──名画の帰還』(2015年・英米合作)

ナチスに押収されたクリムトの絵画《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ》の所有権をめぐり、国を提訴した女性の奮闘を描く。とてもよい映画。同作品は現在ニューヨークのノイエ・ギャラリーにあるよ。

ソクーロフ監督『フランコフォニア──ルーヴルの記憶』(2015年・英仏蘭合作)

歴史に翻弄されてきたルーヴル美術館の所蔵品の記憶を幻想的にたどる。フランスの美術管理を任されたナチス高官メッテルニヒと、作品を疎開させようとした当時のルーヴル館長ジョジャールのやりとりが取り上げられているよ。とてもよい映画。

クルーニー監督『ミケランジェロ・プロジェクト』(2014年・米)

第二次大戦時、ヨーロッパの美術作品をナチスの手から守るため、ルーズベルト大統領の命で組織された「モニュメンツ・メン」の活躍を描く。実は未見。『ヒトラーvsピカソ』では、モニュメンツ・メンが集めた情報をもとに爆撃する場所を決めてたって言ってたね。

ワイダ監督『残像』(2016年・ポーランド)

これはナチスの話ではなくて、社会主義政権下のポーランドが舞台。全体主義による圧政のもと、抵抗もむなしく迫害され潰されてゆく芸術家の姿を描く。強い政治権力に抗ったらどうなってしまうのか、容赦なく救われない物語。

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15世紀の羊毛職人とフィレンツェを歩く! めちゃくちゃ楽しい歴史散歩アプリ Hidden Florence

フィレンツェに来ています。数年前にダウンロードした、フィレンツェに来たらぜひとも使おう! とずっと思っていたアプリがあって、でも来るたびに忘れるので悔しい思いをしていたのだけど、今回はしっかり覚えてた。やったね。

というわけで、アプリ Hidden Florence を紹介するぞ。無料だぞ。

Hidden Florence
Hidden Florence
開発元: University of Exeter
無料

ざっくり言ってしまうと、ルネサンス期フィレンツェの様子が体験できるオーディオガイドである。ときは1490年。フィレンツェで羊毛職人として暮らすジョヴァンニ・ディ・マルコがアプリ利用者のガイドとなり、都市生活のことや最近あった出来事などについて語ってくれるという内容だ。

英語とイタリア語しかないので日本人からしたら言語的ハードルはあるのだけど、「英語 or 伊語チョットワカルヨ」という方はぜひチャレンジしてみてほしい。

このアプリでは、利用者がマップに沿ってフィレンツェを歩きまわることが想定されていて、特定の地点に来ると、突如音楽が鳴りはじめ、その地区やモニュメントや建築等についてジョヴァンニが語り出す。実際の場所に立ち、通りを歩きながら、往時のようすを聞くことによって、王侯貴族や有力商人が主役なタイプの歴史書ではなかなか知ることのできない、15世紀フィレンツェの「普通の人」の生活がありありと再現される…という仕組みなのだ。

このジョヴァンニなる人物はじつは架空のキャラクターで、15世紀後半のフィレンツェにいたであろうような人物造形がなされている。まぁ細かいところまで作りこもうとすると、ガイド役のキャラクターはフィクショナルなほうが勝手がよいよね。

しかしジョヴァンニの肖像、完全にマザッチョ。

ルネサンス期フィレンツェの庶民の生活を覗く

さっそくマップを開いてみよう。現在はプレインストールされている「市街地コース」と、ダウンロードすれば利用できる「サンタンブロージョ地区コース」、二種類の散歩コースが楽しめる。開発者チームのブログを見ると、近々ほかのコースも足されるようだ。ちなみに、この古風な地図はステファノ・ボンシニョーリによる16世紀のフィレンツェ図に基づいている。道があまり変わっていなくてびっくり。

番号が書かれているところに行くとトークが始まるぞ!

「市街地コース」から行くべきだとは思ったが、ちょうどサンタンブロージョ教会に行く用事もあったので、「サンタンブロージョ地区コース」からやってみることにした。ジョヴァンニはこの辺りに住んでいる設定らしい。サンタンブロージョ教会はフィレンツェの東エリアにあって、建築家アルノルフォ・ディ・カンビオの図案によるといわれる市壁(1284年建設)の外側に位置していた。当時の感覚ではフィレンツェ郊外といった感じだろうか。

GPSをオンにしていれば、教会前の広場(地図上の①)に着くと自動的にジョヴァンニのトークが始まる。彼の語りを聞いていると、ファサードの端に埋め込まれている、3本の塔のマークが彫られた石の印に注意がうながされる。たしかにこれは言われないとなかなか注目しないかも…。

「教会前面の右端にある銘を探してみよう!」
サンタンブロージョ教会のファサード。この右端に…?
コレか…??(写真だと図案がよく見えない)

これは「チッタ・ロッサ(「赤い都市」の意)」というポテンツァをあらわすシンボルなのだそうな。ポテンツァとはこの地区の祭礼を運営する組織で、チッタ・ロッサは毎年5月に仮装行列を組んで地区を練り歩いたのだとか。その際にはチッタ・ロッサのメンバーのなかから一人「王」を演じる者を選出するのが特徴。一度ジョヴァンニも王様役をやったことがあるらしいよ!

このような、漠然と見ていると見逃してしまうような細部に、歴史があるものだなぁ…としみじみ感じさせられる。

学術的サポートもしっかり

だが、当時の人間からは見えないこともある。大局的な状況というのは、ある程度時間を経てからじゃないと可視化されないものだ。

そこで、ジョヴァンニの説明を聞き終えたあと、画面下部にあらわれる Discover More をタップしてみよう。歴史学の研究者による歴史的背景の解説が聞けるぞ!(解説は英語のみでイタリア語なし)なにを隠そうこのアプリ、英エクセター大学のプロジェクトとして開発されているのだ。その分野のトップクラスの研究者が関わっているので、情報源の信用度は高い。

この下にある Discover More をタップすると…
背景がカラー写真になり、研究者の解説が聞けるぞ!

解説によると、サンタンブロージョ周辺エリアは郊外ということもあり、比較的貧しい労働者階級の職人たちが集う場所だったらしい。こういった人々はたいていの場合「市民」にカウントされることもなく、政治に参加することも許されなかった。しかし、チッタ・ロッサのお祭りの日だけは、そのような人々から「王」が選出され、普段彼らを統治している人々の上に君臨する。いわゆる「さかさまの世界」が現前するのだ。

こうした行事は祝祭であるとともに、労働者階級のストレスや不満を解放するための一つの手段でもあったとか。1378年に起こった下層労働者の反乱「チョンピの乱」は、まさしくこのサンタンブロージョ周辺が主な舞台となったので、この辺りの労働者の蜂起はけっこう現実的なリスクとして認識されていたはず。彼らの鬱憤をうまく発散させてやることは、そういった政治的に重要な役割も帯びていた。

歩きながら解説を聞くのも楽しいが、もっと知りたい向きは公式サイトに飛んでみよう。メニューの Stories にはルネサンス期フィレンツェを生きた人々の物語がいっぱい詰め込まれていて、これを読むだけでもかなり楽しい。しかもばっちり参考文献もついているからうれしいね。

歩きながら使うときは気を付けて

フィレンツェを歩き回りながら使うアプリだとは言ったけど、べつにフィレンツェにいなくても、ジョヴァンニの語りも研究者の解説も聞ける。とりあえずオーディオだけ楽しむのもアリだ。教会のなかに入ると声の響き方が変わるとか、音響も凝っている。

ただ、歩きながら使うときはけっこう周囲に注意しないと危ないことになる。歩きスマホ状態になりがちなので、狭い道では知らないうちに往来の邪魔になってしまっていることも…。人や車の邪魔にならないところで落ち着いて解説を聞こう。ジョヴァンニに立ち止まって注意深く見るように指示されるところが、現在ではなんでもない普通の家の前なんてこともあるので、「立ち止まりにくいな…」みたいなこともあった。

一方で、自分ではなかなか行かないような通りを歩くことにもなり、かわいいお店やおいしそうなレストランを見つけたりもできてよい(あらゆる街歩きに言えることだが…)。サンタンブロージョの辺りはいまも職人が多いのか、ハンドメイドの洋服やアクセサリーのお店が多いように感じた。スカート買いました。

ごちゃごちゃ書いたけど、アプリの使い方については公式の動画を見るのがいちばん手っ取り早いかも。というわけで埋め込んどきますね。

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ブレラ絵画館はあなたを絵画の虜にする

ミラノの美術館といえばブレラ絵画館! 今回ミラノ初訪問だったので、ブレラ行くのもはじめてだったが、すっごくよい美術館で感動してしまった。

ブレラ絵画館はナポレオン占領時代につくられたので、イタリアでは比較的新しめの美術館と言えるが、「イタリアのルーヴル」となるべくつくられたこともあり、そのコレクションはピカイチだ。とくにヴェネトやロンバルディアの絵画作品が充実していて、ベッリーニやマンテーニャ、レオナルデスキたちの作品が目白押し。ベルナルディーノ・ルイーニがこんなに多作だとは知らんかった。

しかしここで書きたいのは持ってる作品群のよさについてではない。ブレラ、作品の見せ方がめちゃくちゃ上手い。こんなふうに展示されたら絵が大好きになっちゃうな〜と思わせる工夫がそこかしこにあって、ブレラ絵画館の中の人たちがいろんな方法で絵画に興味を持ってもらおうとしているのがひしひしと伝わってきた。以下ではその工夫の数々を紹介していくぞい。

キャプションの妙

館内に入るとまず美術館の成り立ちと立ち位置についての解説があるんだけど、そこでブレラでは作品のキャプションに力を入れていることが説明される。

それによると、ブレラ絵画館のキャプションは3種類。まずは一般的な美術館にあるような、作家の名前、作品主題、制作年代、メディア、来歴、作品解説などを記したキャプション。それに加え、ナウなヤングにも楽しめる解説や鑑賞指南が書かれたジュニア向けのキャプション。そして最後に、当該の作品に言及した美術史家、歴史家、小説家、詩人などなどのことばを紹介するキャプション。

たとえばこの15世紀フェッラーラの画家フランチェスコ・デル・コッサによる絵画には、作品情報を記した普通のパネルと、作家アリ・スミスによる小説『両方になる』からの一節を紹介するパネルが並置されている。

ちょっと硬めの線描が魅力のコッサ作品! これは《聖ペテロ》と《洗礼者聖ヨハネ》。
普通の解説キャプション。右に見切れているのはジュニア向けの解説だ。
『両方になる』からの引用を記述したキャプション。

『両方になる』はまさしくフランチェスコ・デル・コッサが主役の一人として登場する小説で、最近新潮社から邦訳も出た(とっても面白かったです)。絵を見ながらこの引用を読むことで、鑑賞者の想像力も刺激される。

もちろん全ての作品に複数のキャプションがついてくるわけではない。でも、絵画そのものにはピンと来なくても、あの作家が言及してる絵なのか〜と思えばまたちがった関心の持ち方ができる。ちょっと異なる切り口で作品についての興味を持たせる、上手いやり方だと思った。

触ってわかる再現度

15世紀以降の絵画作品は、現実世界を模倣する技術が格段に向上するので、いわゆる「リアル」な表現が出てくる。中世の趣を残す装飾豊かな絵画でも、聖人たちが身にまとう刺繍入りの織物、貴婦人たちのベルベットのドレス、その下から覗く絹のシャツ、まるで触れたときの手ざわりまで分かるようなリアルさだ。

15世紀ヴェネツィアの画家カルロ・クリヴェッリのこの作品なんか典型ですね。

とっても華やかなクリヴェッリ作品。

でも、金襴の織物とか深紅のベルベットとか、ほんとに触ったことってある? (ベルベットくらいはあるかもしれん)  いずれにせよ、本物の手ざわりを知らないのに、「手ざわりまでわかる〜」なんて言ってるのはナンセンスだ。

ハイ、では触ってみましょうね! あまり多くはないけど、何枚かの絵画には「画家が絵筆で再現したかったモノ」のサンプルが貼り付けられたパネルがあって、自由に触れてみることができる。

ベルベット生地のサンプル。ふっかふかやで!
金襴のサンプル。ちゃんと生地の解説もある。

ふかふかのベルベット生地を触ってみれば、クリヴェッリがどのようなテクスチャを再現しようと頑張っていたのか、より感覚的に理解できるだろう。金襴の織物も同じように触れるようになっているが、こちらは織り込まれた金糸がどのように光を反射して鈍く輝くのかを知るのにも役立つ。

これらを体験したうえでもう一度絵画を見てみれば、こうした絵画内のさりげなく実現されている再現表象が、どれほどの驚異であったかもよくわかるように思う。

関係ないけどこのクリヴェッリの絵、一部立体になってて面白い。しかしお前、絵筆で再現するのあきらめたんか?

聖ペテロのもつ鍵が立体だぞ!

お絵かきコーナー

さらに、とくに広い展示室では、ときどき特殊な形の椅子と画板が設置してあり、そこには画用紙と鉛筆が置いてある。やったー模写し放題だー!

突如現れるお絵かきコーナー。

ひとつ前の記事でも触れたが、なぞって描いてみることによって得られるものは多い。ただぼーっと見ているだけではなかなか気づかないところが可視化されるし、単純にひとつの作品を眺める時間が長くなるので、細かなところまでじっくり見られる。

なので、こうしたお絵かきコーナーは鑑賞者をひとつの作品の前にとどめ置く装置として機能しているのだろう。 実際、ひとつの作品を時間をかけてじっくり見るというのは技術だ。すぐ次に行ってしまいそうになる。美術作品を前にしても、キャプションだけ見て作品あんまし見てない、みたいなことないですか。

ちょうど席もあいていたので、私も描いてみた。チーマ・ダ・コネリアーノの祭壇画(の一部)。けっこう難しい!

目の前の作品に集中!

というわけで、ブレラ絵画館はあらゆる方法を駆使して鑑賞者に絵画を楽しんでもらおうという気概が感じられる最高の美術館だった。がんばってる美術館だいすき。ミラノにお越しの向きはぜひゆっくり時間をとって行ってみてね。

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美術史のプロセスを展示する——アントネッロ・ダ・メッシーナ展

突然ですがイタリアに来ています。今まであまりカバーできていなかった北イタリアを攻めようということで、実は未踏の地だったミラノを歩き回っているところ。

つい数日前からドゥオーモほど近くのパラッツォ・レアーレで「アントネッロ・ダ・メッシーナ展」をやっているというので、着いて早々観に行った。メインビジュアルになっている《受胎告知の聖母》が来ている(この作品はパレルモにあってなかなか観る機会がないので、これだけで行く価値があろうというもの)というくらいしか事前情報を把握していなかったが、これが素晴らしい展覧会だったのだ。

一言でいうと、これはアントネッロの生涯と作品を紹介する展覧会であるのみならず、アントネッロの作品群を通して、「美術史を研究するとはどういうことか」をまるごと展示する試みだ。

第一級の作品群を展示

どの作品が展示されているのかほとんど知らないまま行ったのだけど、「えっこの作品が?」「この作品も来てるの??」というくらいアントネッロの主要な絵画が網羅されていた。

見てこの贅沢な展示室の使い方!

まず最初に《書斎の聖ヒエロニムス》がドーンと出てくるのでくらくらしてしまう。しかも広い展示室の一室がまるまるこの絵画の展示に費やされているので、ある程度人が集まっていても、あまり混雑した印象がない。少し待てば至近距離で観察できるほどの込み具合で、普段はロンドンにあるこの作品を堪能することができる。私はこの絵の右奥に静かにたたずむライオンが好きなのだけど、今までシルエットだけが描かれているのかと思っていたこのライオン、よく見るとちゃんと顔まで描かれていてなかなかかわいらしい。

ここまで至近距離で見えちゃうぞ

アントネッロといえば忘れてはいけない、さまざまな肖像画ももちろん展示されている。ニヤリと不敵な笑みを浮かべる《水夫の肖像》、帽子の下からはみ出るふさふさの髪の毛に今までまったく気づかなかった。こういう発見も実際の作品を観る醍醐味だね。

写真撮るの忘れたので Wikimedia Commons から。でもこういうネットの画像だと髪の毛がぜんぜん見えないんだ。

それにアントネッロの作品のなかでもっとも著名で、今回の展示のメインビジュアルになっている《受胎告知の聖母》。これもまた一部屋に一枚のみの贅沢展示で、至近距離から観察しながら、じっくり大天使ガブリエルの気分に浸ることができる。

祭壇かよ
こんなに近くでじっくり観られるなんて…

ほかにも、ミラノの人々がアントネッロを宮廷画家として呼び寄せようとした記録の残る手紙が史料として出品されていたり、修復や科学調査で判明したさまざまな絵画技術がパネル展示されたりして、アントネッロの画業についてあらゆる方向から理解できるようになっていた。

第二の主役、カヴァルカセッレ

しかし、このアントネッロ展は彼の作品を展示するだけに収まらない魅力がある。それは、アントネッロに関わる美術史の軌跡もが展示されているという点だ。

まず展示室に入ると、アントネッロの画業の紹介とともに、19世紀の美術史家ジョヴァンニ・カヴァルカセッレとは誰かの説明がけっこうなボリュームで展開されるのが目に入るだろう。このカヴァルカセッレこそこの展覧会の第二の主役であり、展示を通してカヴァルカセッレの存在なしには現在のアントネッロの美術史的な評価はないということが露わになるという構成になっている。

冒頭の説明曰く、アントネッロはその死後80年も経つと主要な史料はほぼ失われてしまい、数々の伝説が残るのみとなったという。ヴァザーリが「アントネッロはヤン・ファン・エイクから直接油彩技法を学んだ」なんていう話を広めたもんだから真実はますます分からなくなるし、17世紀になればヴェネツィアの伝記作家リドルフィが、「ジョヴァンニ・ベッリーニが貴族に扮してアントネッロに肖像を依頼し、北方絵画の秘密であった油彩技術を盗み見た」なんていう逸話を作り出す始末。またこの逸話が19世紀に人気の主題となり、アントネッロの真の姿は伝説と逸話にまみれてまったく分からなくなってしまっていた。

そのような状態にあって、このような信用ならない伝記記述でなく、まさしく作品の直接観察によってアントネッロの画家としてのキャリアを再構成して見せたのが、われらがカヴァルカセッレであるというわけだ。

展示室では、アントネッロの代表的な絵画が贅沢に展示されているその横に、その作品に関連するカヴァルカセッレのノートが展示されている。この美術史家はヨーロッパじゅうを歩いてまわり、主要なコレクションを網羅して、さまざまな作品を自分の目で観て、絵の主要な構成を記録するためスケッチをし、その作品の帰属をめぐる思考の軌跡までもこまごまとメモして残しているのだ。

こういうスケッチを含む観察ノートが山のように残されているようだ

人間、ぼんやり絵を眺めているだけでは、けっこういろいろなものを見落としてしまう。 美術史の授業でも最初にディスクリプションの練習をするように、絵をしっかり見るには訓練が必要なのだ。その点「模写をする」、あるいはそこまでいかずとも、「真似してスケッチをする」というプロセスはその絵に関するさまざまな細部を浮き彫りにするものだ。

現在ベルリンにある青年の肖像
上の肖像を観たカヴァルカセッレのメモ

カヴァルカセッレの時代、現在ほど簡単に写真を撮ることができなかったという事情もあろうけれども、 彼がどこに注目し、どの部分から「この作品はアントネッロの作である」という結論を下しているのかがよく分かって面白い。私なんかはあまり目利きでないので、この美術史家の観察眼に舌を巻くばかりだ。

美術史のプロセスを展示する

こうしたアントネッロの作品や最近の修復や科学調査によって判明した技術、ミラノの宮廷と関連付けられる15世紀当時の手紙という一次史料、そして19世紀にアントネッロの軌跡を追ったカヴァルカセッレの功績、という幾重にもレイヤーが重ねられたこの展示は、美術史そのものを展示していると言っても過言ではない。

実際、美術史家の仕事とはまさしくこういうことだ。作品を観て、同時代の史料と関連付け、そして歴史上の、あるいは美術史上の位置づけを探る。そうした美術史の比較的地味な営みのなかに、ある作品を特定の作家に帰属するためのスリリングなプロセスを見出し、その面白さ、重要性をまざまざと見せつけるのが今回のアントネッロ展なのだ。

ただ、いかんせんアントネッロの情報+カヴァルカセッレの情報で、ものすごい情報量を提供しているので、気軽にピャッと鑑賞できる展覧会にはなっていない。絵を観る時間より文字を読む時間のほうが多いかもしれない。

しかし、美術史家の仕事、そしてその真髄を見せる気概を感じる展示なので、6月までやっているので、機会があればぜひ訪れてみてほしい。めちゃくちゃアガる展示です!

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ルネサンス工房を経営して名作を生み出せ! ボードゲーム「パトロネージュ」覚書

時祷書風のパッケージ

ルネサンス美術史を題材にしたボードゲームがあるということは、1年以上前にツイッターで見かけて知っていたんだけど(現世の情報の9割をツイッターから得る女)、このたびついに実物をプレイする機会を得た。傑作との呼び声高い「パトロネージュ」である!

ちょうど友人にボドゲ狂いがいたので、これ幸いと焚きつけてみたところ、ほかにも美術史に造詣の深い友人たちが興味を持ってくれて、総勢4人でボドゲカフェへ。

結論から言うとめちゃくちゃ楽しかったし、よくできたゲームなので、いろんな人にぜひ挑戦してほしい! ここではプレイ中に思ったこと考えたことをいくつかメモしておくね。

プレイ中のテーブルの様子

プレイヤーの立ち位置

説明書によると、各プレイヤーは「工房の長(マエストロ)」になることになってるけど、実際プレイしたところ、これはどちらかというと「工房の経営者」と言ったほうが正確なように思う。

プレイヤーはゲーム中で、手持ちの資金と相談しながら工房を建て、芸術家を雇い、作品を制作させる。プレイヤー自身が作品の制作者となるのではなく、資金を提供してくれるパトロンと実際に制作をおこなう芸術家とを繋ぐ、いわば仲介者のような存在になるわけだ。

このような仲介者をゲームの主役に据えると、良い意味でプレイヤーと美術作品とのあいだに距離ができて、美術もまた市場のなかでやりとりされる商品なのだということが浮き彫りとなるような気がする。

経済活動としての美術制作

美術とかアートとかと言うと、市場価値に置き換えられないとか、値段がつけられるにしても一般的な経済とは別のルールで動いているとか、とかく特別な市場原理を持つものだと捉えられがちだ。それはたしかに近現代の美術においては言えることかもしれないけど、15〜16世紀だと話がちがってくる。

「パトロネージュ」は基本的にはカードゲームなんだけど、ゲーム内で金銭として機能する金貨やそれをプールするための木製の鉢はとりわけ製作に力が入っていて、まるで本物のような手触りが楽しめる。金貨のデザインも、実際にルネサンス期にフィレンツェを中心に使用されたフィオリーノ金貨を模していて、ちゃんと百合紋と洗礼者聖ヨハネの絵柄が彫り込んであるのだ。

存在感のあるフィオリーノ金貨

これは単純にそうしたリアルなアイテムをやりとりするのが面白いというだけでなく、美術制作界隈においても、他の買い物と同じようにお金がまわるんだよな〜としみじみ実感させる装置として機能しているように感じた。

美術のジャンルと「発想力」

また、作品がただ漠然と「美術作品」として提示されるのではなくて、ちゃんと絵画・彫刻・建築でジャンル分けされているのもよい。作品によっては絵画と彫刻のミックス(ex. カッソーネ)とか、彫刻と建築のミックス(ex. 《天国の門》)とかもあって、実際それらの作品はマルチな技術が求められるものなので、現実に即している。

これは同時に、いくら名声の高い芸術家を揃えていても、作ってほしい作品と制作ジャンルが合わないと何も成果がない…という事態をもたらすので盛り上がる。高い金払って自分の工房に建築家ブラマンテや画家ラファエッロをお迎えしても、彫刻作品である《ダヴィデ像》は作ってくれないのよ。

制作能力はカード左上のアイコンで示される。
ルカ・デッラ・ロッビアは彫刻だけ、ブラマンテは建築だけ、フラ・アンジェリコは絵画だけしか制作できない。
「アンジェリコはいい画家だよ~」と友人。知っとるわ。

そうなると、絵画・彫刻・建築なんでもござれの「万能人」の卓越が相対的に浮き彫りとなる。ほんとレオナルドはなんでも作れてすごいよね。

あと、「発想力」がプラスされている芸術家は作れる作品の候補が増えるというのも面白い。それってインヴェンツィオーネじゃん! インヴェンツィオーネはルネサンス期から使われた美術批評用語で、要は作品の構想とそれを生み出す力のことだ。

工房のスペックと芸術家の能力

さらに、作品を生み出す環境も制作の可否に関わってくるのも、とてもよいシステムだ。よい工房を建てておくと後に制作できる作品の幅が広がるわけだが、これは一見当たり前のようでいて見逃しがちなポイントをよく突いているな〜と思った。

歴史に残るようなよい作品については、やはりそれを生み出した制作者が偉大であるような気持ちがしてしまうものだけど、実際のところ環境によるところもおおいにあるだろうしさ…その工房にいっぱい資料がストックされてるとか最新の機材が揃えてあるとか…とかとか…。

それから、より多くの名声をもたらす「名作」をあらわすカードには、金縁の特別な装飾が施されているんだけど、このカード群は最初のラウンドでは登場しないことになっている。

ラウンドを繰り返すうちに、この名作カードが少しずつゲーム内に導入されていき、だんだん名作を制作できる頻度が上がるシステムになっているのだ。そりゃ最初から名作は作れないもんね。

「名作」の数々!

ちょっと文句をつけるなら…

以上のように、「パトロネージュ」は非常に完成度の高いボードゲームなんだけど、少しだけ言いたいことがないこともない。

まず、タイトルの割にパトロンの存在感が案外薄い。たぶん注文のプロセスがないからだと思う。なぜその作品を欲しがっているのか、その作品を手に入れてどうするのか、という話がないので、ともすると芸術家たちが機械的に作品を生み出しているような感じに陥ってしまう。

これはおそらくゲーム製作者さんも気づいている点で、ゲームには説明書のほかにも「パトロネージュ講座」という小冊子が同封されている。そこではポントルモとブロンズィーノの二人が時代背景やパトロネージュの何たるかを教えてくれる対話篇が展開され、末尾にはゲームに登場する作品の詳細も紹介されているのだ。

少年ブロンズィーノかわいい

それから、登場する芸術家や作品がフィレンツェとローマに偏っている印象。北イタリアで活動した人、パッラーディオくらい? まあパラッツォ・デル・テは出てきたけども…ヴェネツィアください…ティツィアーノが木陰で泣いてるから…。

まあでも、もちろんプレイして楽しいことが優先で、ルネサンス期の美術制作プロセスを再現することは目的でもなんでもないので、ティツィアーノが泣こうがわめこうがゲームとしては全然問題ないです。

というわけで、ルネサンス美術史好きは「パトロネージュ」やろうな!! 説明書は販売元のサイトでダウンロードできるよ。