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西洋美術史おすすめ本まとめ

こんなツイートをしたら思いのほか反応があった。

小学館の新書のタイトルをまちがえる痛恨のミス(ほんとうは『西洋絵画の歴史』)。

西洋美術史の入門書、いっぱいあってどれを読んだらいいのかわからんもんね。というわけで、以下おすすめポイントとともに列挙していくぞ。

とりあえず通史が知りたい

最初に挙げた小学館ビジュアル新書の『西洋絵画の歴史』シリーズ全3巻は、とりあえずルネサンスから現代に至る美術の流れを知るのに、最もコンパクトでわかりやすいものとしておすすめ。新書なのでお値段がそこまで張らないのもポイントだ。

西洋絵画の歴史 1 ルネサンスの驚愕 (小学館101ビジュアル新書)

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遠山 公一
小学館
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とくにルネサンスが専門の人間としては、作品がもともとあった場所についての言及があるのがうれしい。この時代、美術は美術館で観るものではないし、今でも教会にある作品とかいっぱいありますからね。よく作品は現地で観ろっていうけど、本物はオーラがちがうとかそういうことよりも、昔の時代の作品はしばしば置かれた場所と連動しているからですよ。

美術作品とその背景にある思想を理解するという目的達成のため、書き方はわりとフレキシブルで、とりわけ最終巻の近現代美術を扱ったところは、あえて時系列に沿わず、テーマごとに美術の流れを解説する仕様。19世紀後半から20世紀以降はいろんな流れが同時に起こるから、テーマごとのほうが何と何がつながっているのかクリアになるよね。

まあ欠点を挙げるとすると、絵画史オンリーなので絵画以外の美術については手薄。でもそこもカバーするとなると3巻では済まないだろうね。あとルネサンスから始まるので古代~中世美術について知りたければ他を当たろう。


「美術史のだいたいの流れは分かっているけどもっと踏み込んだところまで知りたーい!」という向きは、中央公論新社の『西洋美術の歴史』全8巻に挑戦してみよう。ハードカバーだぞ。

西洋美術の歴史1 古代 - ギリシアとローマ、美の曙光

西洋美術の歴史1 古代 – ギリシアとローマ、美の曙光
芳賀 京子 芳賀 満
中央公論新社
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中央公論新社のこのシリーズは、作品図版に紙面を割くのではなく、テクストによって美術史を語ろうという試みで、それもあって図版は少なめ。しかし専門家によるディープな話もどんどん知れるし、美術史に限らずなんでもそうだけど、やっぱりいちばん複雑なところがいちばん面白い。

作品ひとつ取っても、作家の状況、パトロンの状況、社会・政治・文化的背景、技法、経済、美術の制度や思想、アカデミー、ありとあらゆるいろんな要因が重なったところに生成されるものなので、それ一つ一つ解きほぐしていったらそりゃ面白いし、なによりその時代を知ることにつながる。

美術史という学問を知る

ここで「美術史ってどういう学問なの?」「美術史家って何を調べるの?」という疑問が生じた諸賢には、ちくまプリマー新書の『西洋美術史入門』シリーズ2冊がおすすめ。

西洋美術史入門 (ちくまプリマー新書)

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池上 英洋
筑摩書房
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これも新書なのでお手に取りやすいサイズとお値段。この本、1冊目の『西洋美術史入門』では美術史の理論やディシプリンが紹介され、続く『西洋美術史入門 実践編』では具体的な作品を通したケーススタディが展開される。

これから大学等で西洋美術史を学びたいな、でも具体的にどういうことをするのかな…など悩んでおられる向きにピッタリ。それ以外にも、「美術史を論じることとと美術の批評ってどうちがうのかな?」というような疑問にも答えてくれるだろう。


と、ツイートでは140字にまとめてしまったけど、それぞれ性格がちがうので、自分に合った本を読んでみてね。

あと、よろしければ拙著もよろしくやで。イタリア・ルネサンスを中心に、作品制作に至るまでのいろんないざこざを紹介しています。 作家とパトロンのバトルとか、 作家と作家のバトルとか…(たいていバトルしてる)。

ルネサンスの世渡り術

ルネサンスの世渡り術
壺屋めり
芸術新聞社
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美術史のミソジニーと折り合いをつける

400年も500年も昔の美術作品を調べていると、ときどき21世紀人から見るとぎょっとするような主題のものがある。

パッと思いつく限りでも、ギリシャ・ローマ神話には「それって女性側からしたらどうなん?」となるような話が満載だし(テセウスに捨てられるアリアドネとか、ゼウスに犯されるエウロパとかレダとか)、キリスト教主題だって自分らの父親を誘惑する娘たちってどうなのってなるし(ロトと娘たち)、世俗主題でも純潔を汚された乙女が自殺するのが美談になってるし(ルクレティア)。それが絵やら彫刻やらであらわされて、当時の文献で「まことに美しい」とか書かれていたら、そりゃ絵はそうやろけどこれ相当ヤバい話やで? みたいになりますわな、こちとら21世紀人なんで…。

現在都内の大学で西洋美術史を教えているのだけど、こういう話を紹介するのは難しい。難しく感じているのはこちらだけかもしれないけど、とりあえずいちいち「いまの感覚でいったらナシですけどね」的な挿入句を挟むことでなんとか折り合いをつけている状況だ。西洋美術史はこうした男性中心の文化のなかで育まれてきたものなので、ある程度は飲み込んで鑑賞してもらわないと何も説明できないのだけど、でもやっぱちょっと居心地は悪いよね。

こうした居心地の悪さは、なにも最近になって始まったわけではない。20世紀半ば以降の美術作家たちは、 美術史に潜むこうした男性中心主義を告発し、それに否をとなえてきた。

エレノア・アンティン《パリスの審判》とルーベンス

たとえばエレノア・アンティンという作家は、2007年に「ヘレネーの旅 Helen’s Odyssey」と題されたシリーズを制作している。ここでいうヘレネーとは、もちろん絶世の美女と謳われたトロイアのヘレネーのことだ。そのシリーズの中の一枚、《パリスの審判》は、同主題のルーベンス作品をベースにしている。

エレノア・アンティン《パリスの審判(ルーベンスに基づく)》2007年
ピーテル・パウル・ルーベンス《パリスの審判》1638年ごろ

「パリスの審判」はトロイアの王子パリスが、三人の女神のうちだれがもっとも美しいか決める場面。パリスはもっとも美しい女神に黄金のリンゴを渡さねばならないのだけど、愛の女神アフロディーテがパリスに「選んでくれたら世界一の美女ヘレネーをあげるネ」と持ちかけ、この勝負を制することとなる。

ヘレネーにしてみれば己のあずかり知らぬところで自らの処遇が決定されてしまって迷惑千万だし、だいたいもっとも美しい女神とやらを選べるパリスも何様なんだ? という感が否めない。こういう筋書き、ちょっと男性にとって都合が良すぎやしませんか、とアンティンの作品は告発する。

画面右側に集合した三人の女神は、アテナ→男勝りな女、アフロディーテ→セクシーな女、ヘラ→家庭的な女、とそれぞれ非常に類型化された女性像に置き換えられ、属性のみと化したイメージとしての女性を皮肉っているようだ。また、品定めするパリスとその背後にいるヘルメスは、吟味する視線を女神たちに注いでいるけれども、この勝負でいちばんその身が左右されるはずのヘレネーは画面の左端で置いてきぼり。アンティン作品のほうがルーベンス作品よりちょっと横に細長いんだけど、こういうふうに画面端にヘレネーが置かれると、ルーベンスがわざとヘレネーをカットしたみたいに見えるので面白い。

アンティンがおこなったような、男性中心主義のただ中にある古典絵画をいわばジャックして、その枠組みや制度もろとも批判的に表現するというやり方は、それ自体きわめて美術史的な方法といってよい。1863年にエドゥアール・マネがティツィアーノを引用しながら《オランピア》を描いたときにも、画家は古典絵画をうまく使ってその虚構性を暴いた。暴いているものは違えど、両者のやり方は地続きである。

隠し切れないミソジニーが悪臭を放つのも西洋美術史なら、そういった枠組みごと表現でもって批判する精神もまた西洋美術史を構成する一要素なのだ。

シンディ・シャーマン《無題 #216》とフーケ

また、フェミニスト美術家がこのような表現をおこなった例として、シンディ・シャーマンは外せない。彼女の「歴史肖像画」シリーズは、西洋美術史上の聖母像や肖像が、いかに見せかけ・虚構で成り立っているかを浮き彫りにするものだ。

たとえば、聖母子像を自ら演じる写真作品《無題 #216》。これは忠実な再現ではないものの、ジャン・フーケによる聖母子像を彷彿とさせる。

シンディ・シャーマン《無題 #216》1989年
ジャン・フーケ《ムランの聖母子》1452-58年ごろ

露骨に作り物であることが強調されたシャーマン作品の聖母の乳房を見たあとにフーケ作品を見ると、シャーマン作品よりさらにありえない場所に乳房があって笑ってしまう。これも古典美術の虚構性というか、ルネサンス以降の絵画作品がどれだけ遠近法を極めて奥行きのある空間を描き、彩色を極めて肌の質感を追求しても、それは現実ではなくて単なる見せかけだし、多くの場合男性から見た理想をあらわしているに過ぎないよ、という事実を暴いているのだ。

とくにこのフーケの《ムランの聖母子》は二連祭壇画で、もう片側のパネルには聖母子に視線を投げかける二人の男性が描かれている。聖母子に祈りをささげる寄進者とその守護聖人の図だけれど、やっぱり何か一方向的なまなざしを感じるよね。

ジャン・フーケ《ムランの二連祭壇画》1452-58年ごろ

ケイト・マクドウェル《ダフネ》とベルニーニ

より最近の作家では、ちょっとどこまでフェミニズム的な意図が含まれているのかは分からないけれど、ケイト・マクドウェルという作家が面白い作品を制作している。《ダフネ》と題されたその作品が、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの《アポロンとダフネ》に着想を得ていることは確かだ。

ケイト・マクドウェル《ダフネ》2007年

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ《アポロンとダフネ》1622-25年

エロスの采配でアポロンに一目ぼれされたニンフのダフネは、しつこく追いかけてくるアポロンの愛を拒絶して逃げまくる。ついに捕まりそうになったところで、ダフネは父である河神に祈り、月桂樹に変身。その変身のいちばんドラマティックな場面を切り取ったのがベルニーニ作品だ。

しかし、マクドウェル作品においては、ベルニーニ作品よりもダフネの悲痛な表情が強調されているし(ベルニーニ作品は2.5メートルくらいの高さがあるので、近づくとダフネの表情はあまり見えない)、だいたいこんなことになったのはエロスにちょっかい出したアポロンのせいなので、ダフネからしたら、なんでお前のいたずらのせいで自分が木にならんとあかんの? という感じじゃないだろか。アポロンは無傷だし、このあとダフネの月桂樹で楽器作っちゃうんだよ。そんな都合のいい話があるかいな。

マクドウェルはそんなダフネの声にならない悲鳴を、破壊された像としてあらわしているかのようだ。 まぁアーティスト・ステートメントを読むと、マクドウェルはどちらかというと「人間と自然の共存の中で起こる軋轢」といったテーマに関心が強いようなので、植物と化す人間の姿を捉えるほうに重きが置かれているかもしれない。とはいってもやはり、破壊された身体と苦痛にゆがむ表情、これはやはり神話の理不尽に対するダフネの絶望だと思うのよな。

西洋美術史のなかの男性中心主義、それもとくに主題物語等に関しては、こういった作品を適宜紹介して、西洋美術の枠組みのなかですでに批判がある点を示していくというのが、今のところ私なりの穏当な「折り合いの付け方」かなあ。

もちろん、ここで批判されているようなルーベンスやフーケやベルニーニの作品は、当時の社会のなかではなんの問題もなかったはず。そもそも、ルネサンスからバロックにかけての時代、作品にはたいてい注文主がいて、注文主の求めや社会的に認められていた価値観に基づいて作られた。でも時代が変われば社会も変わる。作品の美的価値と内容の倫理が必ずしも一致しなくなってしまい、それと同時に鑑賞自体は万人に開かれているという環境が、このような状況を招いたのだ。

とりあえず、「そこはまあ昔の美術だからね」「これは巨匠の作品だよ」よりも一歩踏み込んだところまで言えるようになりたいものですね。

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《ミロのヴィーナス》の美は「不完全の美」?

先日ツイッターで、中村るい著『ギリシャ美術史入門』を良書として紹介した。

こんな感じで。

実際平易なことばで読みやすく、良書にはちがいないのだが、正直に言うとこの時点ではまだ最後まで読みきっていなかった。このたびちゃんと読み終えて特に印象に残ったのが、最後に紹介されるヘレニズム期の彫刻《ミロのヴィーナス》が、「美術史的には傑作ではない」とバッサリ切られていたことだ。以下、本文からの引用。

そして、これがとても大事なことですが、美術史学の観点からは、決して傑作とはいえないことです。クオリティーの点では、さきの《サモトラケのニケ》のほうがずっと上でしょう。ではなぜ、《ミロのヴィーナス》が至宝として扱われるのか。美術史の立場からいえば、頭部が残っているからです。クラシック期からヘレニズム期の、等身大かそれ以上のヴィーナス像の原作で、頭部の残っているものは、この像しかありません。これ以外で頭部が残っているのは、すべてコピー像です。つまり、頭部が残った唯一のオリジナルとして、稀少価値から評価されているのです。

ちょうど担当している講義で古代ギリシャ美術をやっていたので、そこでは《ミロのヴィーナス》が傑作かどうかには諸説あるとして中村氏の意見も紹介した。すると学生からのコメントで、高校の教科書で「《ミロのヴィーナス》の美はそれが不完全であるところにある」と読んだとの報告が複数あった(※注記1)。まじか。それは知らんかった。

中村氏の解説によれば、《ミロのヴィーナス》の特異性は、それが比較的完全に近いというところにある。なので、この逆転はちょっと面白い。しかし、ここでは別に《ミロのヴィーナス》が傑作か否かを議論したいわけではなくて、その美術史的価値と審美的価値に齟齬が生じているというところに注目したい(※注記2)。この「不完全だから美しい」という価値観、いったいどこから出てきたんだ?

また別の機会に東京芸大の研究室の学生さんたちと一緒に食事をした際、《ベルヴェデーレのアポロン》について面白い話を聞いた。この作品は両腕が欠落した状態で発掘されたため、ミケランジェロの弟子ジョヴァン・アンジェロ・モントールソリが腕を補完したが、1924年にオリジナル部分のみを残すため補完部分は除去された。しかしその後、剥き出しの加工跡を露出しているのはよろしくないということになり、モントールソリ作の腕が付け直されたのだそうだ。

その場の話題では「昔の人の証言や批評を読むとき、同じ作品でも同じ状態で観ているとは限らない」という話になったが(それはそれで面白い話)、この「後世の加工を除去する」というところに、「不完全の美」の芽生えをみることができるように思う。それはおそらく、オリジナル信仰と強い関係がある。

《ベルヴェデーレのアポロン》について調べていると、同じくヴァチカン所蔵の古代彫刻《ベルヴェデーレのトルソ》についても興味深いエピソードを見つけた。なんでも、教皇ユリウス二世がミケランジェロに《ベルヴェデーレのトルソ》の手足や顔を補うよう依頼したところ、ミケランジェロは「この彫刻はこのままで完全だ」と言って断ったというのである。

この逸話、チラッと Google Books で検索した限りではあるが、あまり学術書には出てこず、ガイドブックなどで「伝説によると〜」「伝統では〜」といった枕詞とともに登場する。初出がまだ確かめられていないのだが、たしかヴァザーリのミケ伝にはなかった話だと思う。

逸話が本当の話か後世の作り話かはとりあえず置いといても、ここでミケランジェロがそのセリフを言ったことになっているのは示唆的で、というのも、ミケランジェロはご存知のように「ノンフィニート(未完成)」の彫刻家であるからだ。

たしかに、同時代の美術批評家ベネデット・ヴァルキはすでに「ミケランジェロのノンフィニートはそこらへんの完成作よりも完全だ」といった趣旨の発言をしているので、未完成にも良さがあるという考えは出てきているものの、しかし未完成と不完全には差をつけなければいけないような気もする…。すでに《ベルヴェデーレのアポロン》の例にも見たように、ルネサンス期のイタリア、一部が欠けた古代彫刻は基本的に「創造的修復」を施すのが常だったし(見てきたように語るマン)。

《ミロのヴィーナス》の「不完全の美」、ミケランジェロの逸話、《ベルヴェデーレのアポロン》の腕の除去、どれも同類の思想が根底にある話であるように思う。まあでもこれを結論とするのは早計で、まずはミケランジェロの逸話の初出を特定せねば…。


※注記1

この教科書の文章について、出典元をご教示いただいた。

※注記2

ここの文はもともと「考古学的価値と審美的価値」と記していたが、《ミロのヴィーナス》は発掘調査で出土したものではなく、考古学では出土した場所(遺跡・遺構・地層)が明確でないと一次史料的価値はないとのご指摘をいただき、「美術史的価値」と訂正した。

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ベラスケスと17世紀スペインの美術批評

ベラスケス、154冊もの蔵書を有していたとか。たぶん17世紀の人はこんなふうに寝っ転がって本は読まない。長くやってると肩を痛める姿勢なのでよいこはマネしちゃダメだぞ。

土曜日に現在国立西洋美術館で開催中のプラド美術館展に関連するシンポジウムに行った。スペイン黄金世紀の美術を再考するという趣旨だったが、とくに自分の関心と合致したのは、17世紀スペインの美術批評を論じた発表。あとで振り返りたくなるかもしれないのでまとめておく。

17世紀スペインで刊行された重要な美術書は二つある。ビセンテ・カルドゥーチョの『絵画問答』(1633年)と、フランシスコ・パチェーコの『絵画芸術、その古代性と偉大』(1649年)だ。この二つ、とくにイタリアとの関係から検討すると面白い。

カルドゥーチョ:自然主義批判とイタリアへの郷愁

ビセンテ・カルドゥーチョ(1585-1638)は実はフィレンツェ生まれのイタリア人。なのでヴィンチェンツォ・カルドゥッチというイタリア語の名前で呼ばれることもある。とはいえ、まだ少年の頃にマドリードに移動したため、基本的にはスペインの人という印象。カルドゥーチョの『絵画問答』で展開される主な主張としては自然主義への懐疑がよく知られ、とくにカラヴァッジョ批判の文脈でよく取り上げられるようだ。

ちなみに発表では、カラヴァッジョ批判とされる箇所は「見たままを描いているだけなのにこんなに人気があってすごい」的なニュアンスにも読めるので、再検討の余地があるという話だったが、それでもカラヴァッジョをアンチキリスト呼ばわり(!)してるし、「こんな現実をコピーしただけの作品に感動してどうすんの」みたいな論調はたしかにあるので、やっぱ批判なんじゃないかな~。

その自然主義への懐疑はおそらく彼の出自がイタリアというところにあって、16世紀終盤のマニエリスム最盛期なフィレンツェの芸術観を受け継いでいるのだろうとのこと。たしかにマニエリスム界隈では、自然をそのまま描くのではなく、自然をベースにしつつもそれをより美しく描くことが絵画の使命である、との考え方があった。だからあんなに自然に見えないポーズの人体や胴体や四肢が引き伸ばされた人体が描かれるんだね。

しかし前述のように彼は幼いころにイタリアを離れているので、そこまでしっかり直接の影響があったとは思われない。ただイタリア出身のプライドがそうさせるのか、イタリアにある作品を観てきたように語っているというところはちょっと笑える。大部分は観たことないはずなのに。

フィレンツェ仕込み(?)の素描主義から、静物画や肖像画は低く見る傾向があり、その流れでベラスケスも批判されているという話もあるが、少なくとも名指しでは批判されていないということだった。しかしこれも原文を読んでみんと何ともやね。

パチェーコ:宗教画論とイタリア・コンプレックス

一方、フランシスコ・パチェーコ(1564-1644)はベラスケスの師匠にして義父(ベラスケスがパチェーコの娘フアナと結婚したため)。ベラスケスの最初の伝記を書いた人でもあり、基本ベラスケス万歳。婿殿自慢かな?w ちなみにパチェーコの工房はスルバランやアロンソ・カーノも輩出しているようなのですごい。セビーリャのヴェロッキオかよ(分かりにくい)(フィレンツェ中心主義の悪い癖)。

『絵画芸術、その古代性と偉大』はもともと技法書としての性格が強く、図版もなければ献辞もないが、もともとどういう体裁にするつもりだったのかは議論の余地がある。じつはパチェーコがこれをせっせと書いているときにカルドゥーチョが前述の『絵画問答』を堂々リリースしたので、パチェーコは先を越されてしまった。それで結局、パチェーコの『絵画芸術~』は彼の死後5年経ってからの出版となったのだ。

理論的一貫性はカルドゥーチョのほうがしっかり通っていて、パチェーコはボデゴン(厨房画)をランクの低い絵画ジャンルと認めておきながら、ベラスケスが描いたものは別、とけっこう強引な擁護をしている。自らの弟子ながら、モデルにすべき現代の三大画家の一人にベラスケスを数えているので、相当な入れ込みようだ(ほかの二人はルーベンスとチンチナートという画家)。

パチェーコの美術批評は、カルドゥーチョのように観てない絵を観てきたように語ることはせず、スペイン国内で実際に彼が観た作品を丁寧に批評する傾向にある。しかし宗教画については少し様子がちがっていて、ミケランジェロを批判しているというから面白い。おそらく多少のイタリア・コンプレックスがあったのだろうということが、この辺りからにじみ出る。

たとえばパチェーコはミケランジェロ《最後の審判》を版画で観る機会があっただろうが、版画を通してみると技法や彩色についてコメントすることはできない。しかしそれが宗教画であれば、デコールム(適切さ)という観点から批評ができるので、ここぞとばかりにミケ批判に走っているというのである。

もちろん、敬虔なキリスト者で、1618年には悪名高き異端審問にも関わっているというパチェーコのこと、ほんとうにミケ作品が許せなかった可能性もある。しかし、イタリアの美術論に依拠しつつも、それを超えたいという思いが思わず溢れてしまったのだとしたら、『絵画芸術~』はなかなかエモい美術書なんじゃないだろか。

なんかあまりベラスケスの話しなかったな。まあいいか。

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4月6日はラファエッロの誕生日にして命日…なのか?

4月6日は我らがラファエッロ・サンツィオの誕生日にして命日。19世紀には死の床にあるラファエッロを描いた絵がしばしば見られる。これはヘンリー・ネルソン・オニールの1866年の作。

ラファエッロが亡くなったときのことはヴァザーリも『芸術家列伝』に記している。ちょい長いけど以下引用。

一方ラファエッロはというと、その間も相変わらず密かな恋愛沙汰に余念がなく、いささか度を越して情事に励んでいた。あるとき、いつも以上に激しい情事を楽しんだ後、高熱に襲われて帰宅するに及んで、医者たちはてっきり彼が熱病にかかったと思い込んだ。彼は自分がはめを外したことを話さなかったため、医者たちは軽率にも放血を施し、本来ならば滋養が必要なところをいっそう衰弱させてしまい、ついにラファエッロは自分の死期が近いことを感じとった。〔中略〕こうして最後の告解を済ませ、彼は世を去った。命日は誕生日と同じ聖金曜日で、享年37。ラファエッロの魂は、生前彼の才能がこの世界を美しく飾ったのと同じように、死しては天上世界の誉れとなっているものと信ずべきである。ラファエッロの亡骸が置かれた広間は彼が制作していた部屋で、その枕元にはメディチ枢機卿のために仕上げられたキリストの変容の板絵が飾られた。この絵を見るにつけ、死した画家の遺体と〔絵に描かれた〕生きた人々を目の当たりにした人々は皆、深い悲しみを禁じえなかった。

よくラファエッロの死因は腹上死などと言われるのはこの記述の前半部分がソースかと(よく言われるのか?)。また、亡くなったのが聖金曜日だったというのも、ヴァザーリ以外にも同時代の証言があるため信憑性は高そう。ただし、ここではその日付が4月6日であることは書かれていない。この日付はおそらくラファエッロの墓碑銘を情報源としている。

ラファエッロの墓碑銘は、彼の盟友にして詩人ピエトロ・ベンボによって書かれた。そこには「彼は自らの誕生日と同じ日付、1520年4月6日に亡くなった」とあり、これが具体的な日付の根拠になっているようだ。なぜあえて4月6日? じつは、この日は非常に特別な意味をもつ日だったのだ。

ここで鍵となるのが詩人ペトラルカ。1327年の聖金曜日、すなわち4月6日は、ペトラルカが最愛の恋人ラウラにはじめて会った日にあたる。彼が終生愛し多くの詩を捧げることになる女性を見出した日なので、すなわち彼の詩的な「誕生日」ともとらえられる。4月6日はまた、ラウラが亡くなった日でもある。つまりこの日は、ペトラルカの詩的な生誕と死の日なのだ。

ベンボはペトラルカの自筆原稿を所有し、彼の詩にコメンタリーを書くなどもした、大のペトラルカファンである。彼はラファエッロの墓碑銘で、ペトラルカの詩的な誕生日/命日にラファエッロのそれとを重ね合わせることにより、ラファエッロをルネサンス三大詩人のひとりペトラルカと関連付けた。絵画は詩に比肩するほどの高貴な芸術だし、ラファエッロは絵画におけるペトラルカだというわけだ。

さらに、聖金曜日といえばキリストの受難日だが、14世紀の伝統によれば、この受難日は4月6日だったとされる。つまり、ラファエッロが4月6日に亡くなることは、彼をキリストになぞらえることでもあった。ラファエッロの死の床に《キリストの変容》が置かれたとヴァザーリが語るのは興味深く、このような日付の遊びによってヴァザーリ自身がラファエッロを神的なものへ「変容」させていることを象徴しているかのようだ。

ちなみに、ラファエッロが亡くなったのが1520年の聖金曜日であったことは前述のようにほかの証言があるが、誕生日も同じ日だったかどうかは、出生の記録が残されていないため本当のところは分からない。実際ラファエッロの生年にあたる1483年の聖金曜日は3月28日だったりする。まあでも、ここはラファエッロの神聖性を演出しようとがんばったベンボやヴァザーリの試みを面白く受け取りたいところですな。


参考文献

  • ジョルジョ・ヴァザーリ『美術家列伝』第三巻「ラファエッロ・ダ・ウルビーノ伝」、越川倫明・深田麻里亜訳、中央公論美術出版、2015年。
  • Paul Barolsky, Why Mona Lisa Smiles and Other Tales by Vasari, University Park: The Pennsylvania State University Press, 1991, pp.38-39.
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15世紀のフィレンツェでお財布が寂しくても有名芸術家の作品を注文する方法

15世紀フィレンツェを代表する彫刻家ロレンツォ・ギベルティ[Lorenzo Ghiberti: c. 1381-1455]と注文主であるアルテ・ディ・カリマーラ(毛織物商組合)のあいだの給与支払い形態についての論文を読み直し。ギベルティはサン・ジョヴァンニ洗礼堂のブロンズ扉を二つも作ったことでよく知られている。とくに大聖堂に面した輝く扉は、ミケランジェロをして「天国の扉」と言わしめたことでも有名だ。

ルネサンス期の宗教施設は、つねに宗教団体のみが管理しているわけではなく、職業組合がその管理に関わることもあった。職業組合も半分宗教組織みたいなものだし、そのへんの境界線は今よりずっとあいまいだ。サン・ジョヴァンニ洗礼堂も例外ではない。そのメンテ係は、毎年カリマーラ組合から選出されていた。この組合のアーカイヴ資料は18世紀に火事で焼けてしまってほとんど残っていないが、わずかな写本から多少状況を推測することはできる。

どうもギベルティが最初のドアを仕上げようとした1428年ごろに問題が表面化したようだ。端的に言って、ギベルティのやつ、金がかかりすぎるのである!

給料はべつに現金じゃなくてもいい

ただでさえ高価なブロンズを湯水のように使う巨大な門扉、その予算22,000フィオリーノ。なんとフィレンツェ共和国の年間軍事予算に匹敵する。加えてギベルティの給料が年間200フィオリーノもかかる。(ちなみに一般的な職人の年俸は40フィオリーノ程度。ミケランジェロが《ダヴィデ》を作っていたときの年俸でも72フィオリーノ止まりである。)扉の制作に関わるこれらの出費をカバーするため、カリマーラ組合はすでに1800フィオリーノの借金をしていたが、この利息がまた毎年116フィオリーノ。こうした苦しい状況を改善しようと共和国政府に援助を依頼するも、これがあっさり断られてしまう。政府も1420~30年代にかけては軍事費用がかかりすぎて財政難だったのだ。

こうした状況をギベルティは知らなかったわけではない。彼は彼で救済措置を提案した。給与の支払いが遅れても大目に見たし、金銭の形で支払われなくても受け入れたのである。

たとえば、1431年には、ギベルティはカリマーラ組合の所有していたカレッジ郊外の農場を買い取っている。オリーブ園や果樹園に加え、家が二軒コミコミで370フィオリーノのところ、約80フィオリーノでこれを購入。ちょうど組合から280フィオリーノほど支払いが遅れていたところだったので、これでトントンにしたというわけだ。ギベルティが自分の給料を自分で払っているようで笑えるが、彼のほうにもメリットはあった。農場に小作人を住まわせれば、そこから毎年34フィオリーノの利益が得られるのだ。要するに投資である。

羊毛組合、ライバルに資金提供してしまう痛恨のミス

1430年代に入ると、ギベルティに大型注文を入れるのはカリマーラ組合だけではなくなった。1432年、サン・ジョヴァンニ洗礼堂のお向かい、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂を管理するアルテ・デッラ・ラーナ(羊毛組合)が、大聖堂内に設置する聖ゼノビウスの墓廟の制作をギベルティに依頼したのである。聖ゼノビウス、じつはフィレンツェの守護聖人。初代フィレンツェ司教なのだが、フィレンツェの守護聖人としては洗礼者ヨハネの存在のほうが目立つので、ゼノビウスは地味ダヨネ(こっそり)

聖ゼノビウス廟は3年半で完成させる契約だったが、ギベルティは洗礼堂の扉をせっせと作っていたのでこちらはおろそかになり、5年たっても全然できてなかった(ルネサンス美術あるある)。1437年4月、ギベルティが洗礼堂の扉のパネルを全部鋳造しおわるのとほぼ同時に、羊毛組合のほうはギベルティとの契約を切る決定をする。契約条件がブッチされたのだから当然だが、羊毛組合が激おこだったのは、ギベルティがカリマーラ組合に対して甘々で、カリマーラ組合が給与を支払えなくても、ギベルティがあらゆる解決法を提示してあげていたからかもしれない。

ルネサンス期の大型注文は、作品の代金がいっきに払われるのではなく、分割して少しずつ支払われるのが一般的。前金でいくら、ひと月ごとにいくら、完成したら全額、といった具合だ。おそらく羊毛組合のほうはカリマーラ組合よりもコンスタントにギベルティに給与を支払っていて、それも年額185フィオリーノと結構な金額だったので、ギベルティのメイン収入源になっていたはずだ。

フィレンツェの職業組合は互いにその豊かさを競い合う仲だった。フィレンツェの都市を装飾する公的な美術作品のスポンサーになって、その立派さにより職業組合の裕福さを誇示するのは常套手段。当然、カリマーラ組合と羊毛組合もライバル同士である。ギベルティが多少自分の懐を犠牲にしながらカリマーラ組合に給与の支払いを融通してやっているのを見て、羊毛組合は思ったことだろう。ギベルティお前なんで金払いの悪いほうにいい顔してんの。しかもいい顔できるのは、こっちがちゃんと給料支払ってるからやんけ。ふざけてんのか。

勢いで絶縁状をたたきつけたものの、フィレンツェにはギベルティ以外に頼める彫刻家もいない。1442年には羊毛組合は改めてギベルティに聖ゼノビウス廟を依頼することとなる。ただし今回は制作の進行がより詳細に監視されることとなった。前科があるから仕方がないね。

給与の支払いは意外とフレキシブル

というわけで、どうにも「芸術家」と「注文主」という関係を前提に見ると、わたしつくるひと、あなた払うひと、みたいな印象を持ってしまうが、この二者間における金銭の流れは結構フレキシブルだったようだ。実際、ここでギベルティとカリマーラ組合の関係に見たように、ときにはギベルティのほうがカリマーラ組合にお金を払うような事態にもなったのだ。もちろんあまり頻繁には起こらなかっただろうケースではあるが、興味深いケーススタディとしてここにメモしておく。

それにしてもそこまでの財政難に陥りながらなおギベルティに依頼しようとするカリマーラ組合、そしてそこまでの財政難を知りながら値段については譲らないギベルティ、お互いなかなかプライドもお高そうであることよ。


参考文献:
Amy R. Bloch, “Lorenzo Ghiberti, the Arte di Calimala, and Fifteenth-Century Florentine Corporate Patronage,” Florence and Beyond: Culture, Society and Politics in Renaissance Italy, eds. by David S. Peterson and Daniel E. Bornstein, Toronto: Centre for Reformation and Renaissance Studies Publications, 2008, pp. 135-154.

新装開店

いろんな活動が多岐にわたってきたので、ここらで少しまとめる必要を感じ、わたしという人間がやっていることが一目でわかる場がほしいなと思いました。そんなわたしのわがままなご要望にお応えして爆誕したのがこの「壺屋の店先」です。

管理人のめりは西洋美術史の研究を生業としているのですが、同時に西洋美術史上のいろんな人物をキャラ化してイラストや漫画を描くのを趣味としています。また近頃は頻繁に映画を観ておりまして、研究上関連する芸術家の伝記映画など意識的に鑑賞しております。

こうした活動はすべてが仕事ではないけれど、たがいに密接に関連しています。なので、あえて仕事と趣味をわけず、一つのサイトで確認できるような場があることが大事だと思いました。

これまで長らくツイッターを主な発信の場としてきたけれど、ツイッターはどうしても投稿が流れてしまうし、書いたもの描いたものをストックしておくプラットフォームには適さないので、このたび時代遅れの個人サイトを開設してみました。

今までも個人イラストサイトなど運営したこともあったのですが、イラストサイトという特質上、こうした文章をつづるには適さない仕様になってしまっていたので、思い切って新しいサイトにお引越しと相成りました。

というわけで、壺屋新装開店です。