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美術と政治の深い関係──映画『ヒトラーvsピカソ 奪われた名画のゆくえ』

私がまだ学部2年生で、西洋美術史専攻必修科目である通史の講義に出ていたとき、先生が古典古代建築の三つのオーダーを説明しながら、次のようなことを言った。

「こういう建築様式が古代ギリシャ・ローマから来ていて、古典の伝統になっていくということを知っていると、大銀行の建物がなぜこういう古い様式で建てられているのかわかるでしょ。銀行側としては、すぐ潰れない、永続的で安定した印象を与えたいから、伝統的な様式を選択するわけ」

ふだん何気なく享受している建築、絵画、彫刻といった美術作品には、ただ見て楽しいオブジェとして以上の機能がしばしば期待されている。個人的には、そうしたイメージの読み解き方を身につけることこそ、西洋美術史を学ぶ意義と考えているのだけど、この読解の技術を学ぶと、美術とはかくも恐ろしい劇薬であることが自ずと見えてくるだろう。

その劇薬が極端な効果を発揮したのが、第二次大戦中のナチスの芸術政策。映画『ヒトラーvsピカソ』は、このナチスによる文化財押収とその余波を追う内容だ。イタリア、フランス、ドイツの合作ドキュメンタリーで、ナチスドイツがどのようにして占領地のユダヤ人コレクターたちの財産を不当に押収したか、またその返却がいかに遅々として進んでいないかが、歴史家や活動家、そして元所有者の子孫たちの口によって語られる。

詳しい内容は映画本編を観ていただくとして、ここでは全体的な感想をば。

これは予告編。

「VS」というほど戦ってない

タイトルをそのまま文字通り受け止めると、ヒトラーとピカソがどんなバトルを繰り広げるのか〜!? という感じが若干あるが、べつにこの二人は直接お互いを相手取ってバトルするわけではない(当然)。題に掲げられた「ピカソ」は芸術に携わる人々をあらわす比喩となっているのだ。

だいたい、映画に登場する芸術家/コレクター/画商側はそれほどナチスと戦わない。もちろん当時も反体制派の芸術家はいただろうし、反ナチの声を挙げた勇気ある人もいただろう。財産押収に最後まで抵抗する画商も紹介される。しかしこの映画がもっとも大きく取り上げるのは彼らではない。

むしろこの映画がフォーカスしているのは、体制に協力した美術関係者たちである。それは積極的に協力した者も、結果的にそうなってしまった者も含む。芸術家、美術史家、画商、批評家、コレクター。そういった人々もまた、ナチスの芸術政策や文化財押収についての責任からは免れえないということを物語っているのだ。

たとえば、ユダヤの血が入っているけれど、己の美術の知識を活かしてナチスの美術作品収集の助言者となった人。あるいはまた、表現主義的な作品に退廃芸術の烙印を押しながら、自分の懐におさめていた人。こうした人々の暗躍が、約60万もの美術作品が元の所有者から強奪されるという結果をもたらしたのだ。

このような人々を、芸術に対する裏切りだと軽々しく断罪することはできない。起きたことに対する責任はあるだろうけれども、もし協力を拒否すれば彼らに未来はないのだ。彼らと同じ立場になれば、ほとんどの人が同じような行動を取るだろう。

美術と政治の切っても切れない関係

パンフでは「美術に政治家が口を出すとろくなことにならない」などと言ってる人がいるが、歴史をひもとけば美術はつねに政治とともにあった。昔の王侯貴族が美術品を集めるのは、単に彼らが美術好きだからだけではない。美術作品を所有することは権力表象の一形態なのだ。

かつてルネサンス期の貴族や教皇が、作品を注文するのみならず、古代ギリシャ・ローマの美術作品を競ってコレクションしたのは、それを所有することが権力の誇示に直結したからである。ルネサンスが終わってバロックの時代になれば、彼らはルネサンス期の巨匠の作品を買い集めることに熱中するだろう。もう新たに生産されることのないモノを所有し、展示することは、強力なパワーをもつのである。

また、作品の政治性は作者の思惑とは無関係に発展することもある。フィレンツェに行けば、ミケランジェロの《ダヴィデ》を観ることになるだろう。もともとは大聖堂を装飾するために注文されたのに、時代の流れとともに共和制の象徴に変身し、さらにフィレンツェ政府が共和制から君主制になるときにはメディチ家のシンボルにされた、きわめて政治的な作品である。

美術作品の押収もめずらしいことではない。古代ギリシャの遺物を持ち帰った大英博物館や、ナポレオンの略奪品を収めるルーヴル美術館の話が有名だが、もっと古い例を挙げれば、フィレンツェのバルジェッロ美術館には、トスカーナ大公コジモ一世が押収した彫刻コレクションが並ぶ。必ずしも敵から奪ったものではなく、自らの側近さえも裏切りの疑惑があればすぐに処刑し、その所有物のなかからよい作品を奪って自分のものにした結果が、この豊かな彫刻コレクションなのだ。同時代人にとって、これらの作品は「大公に逆らうな」というメッセージも持ちえただろう。

また、去年の冬に国立西洋美術館で開催された「ルーベンス展」を見に行った人は、ルーベンスが画家であると同時に外交官でもあったことを覚えていると思う。彼は「外国の貴人のために絵画を制作する」という名目のもとヨーロッパを動き回ることができたし、イングランドとスペインのあいだに和平を結ぶ際には、彼の画家としての技量と名声がおおいに役立った。

例を挙げればキリがないが、美術と政治は切っても切れない関係にある。それは16世紀でも20世紀でも同じことだ。ナチスがどのように美術作品を利用したか、それは本編を観て確かめてほしいのだけど、少しだけ個人的に面白かったところを紹介してみたい。

イデオロギーと趣味

ナチスが進めた、前衛的な美術動向を「退廃芸術」と定め文明の堕落と位置づけたことは有名だし、この映画でもその話題は何度も出てくる。

面白いのは、ナチスの幹部がときに「退廃芸術」の烙印を押されたはずの美術作品を個人的に入手して保管していたことだ。なんだ、好きなんじゃんか。

映画中でも解説されるが、政治的な手段で支配層となったナチスはもとはブルジョワにすぎないので、まずは権威づけのためにいにしえの王侯貴族のふるまいを真似ようとする。かくしてゲーリングは森の中に狩猟のための館を建てて絵画で飾り立て、国内外のVIPを呼んではもてなすことになるのだ。そうなると、彼らが集める美術作品も、かつて王侯貴族が好んだような様式のものとなるわけだ。

もちろん、表現主義的作品に比べれば古典主義的作品のほうが理性や秩序を重んじるし、そうした要素が西洋白人の優位を謳ったナチスにとってイデオロギー的にも都合がよいという理由もあっただろう。いずれにせよ、古典主義的な作品は個人の趣味というよりはむしろ、イデオロギーに合致するから重宝されている。

その結果、本来アヴァンギャルドな美術を好んだナチス幹部は、表向きそうした美術を退廃と断罪しながら、プライベートでは自邸に堂々と飾る、といった現象が発生したのだ。

しかし、こうしたことはナチスのみに起こったわけではないだろう。16世紀後半のミラノの画家たちがこぞってレオナルドを模倣したり、同時期のフィレンツェの画家が同じようにミケランジェロを模倣したりしたように、美術を享受するほうもまた、パトロンならば過去の大パトロンを、コレクターならば過去の大コレクターを真似たのである。

たとえば、ルネサンス期ミラノにレオーニという彫刻家がいるが、彼は当時の芸術家としては破格の富を築いて、自ら美術作品をコレクションしていた。いま彼の財産目録を見てみると、彼が神聖ローマ皇帝のコレクションを模倣しようと頑張っていたのが明らかである。レオーニは一介の彫刻家にすぎないので、貴族階級には上がれっこないのだが、ふるまいだけでも近づこうとした彼の涙ぐましい努力が垣間見える。けれども、彼は本当に皇帝が好むような美術を好んでいたのか?

作品を集めることそれ自体に政治的な意味が宿ることを踏まえれば、単純に「は〜こういう美術が好きだったんやねぇ〜」という感想だけでは終わらないはずだ。

過去の出来事とあなどるなかれ

とはいえ、昔の話でしょ、と思う人もいるかもしれない。映画では、強奪された作品の返却作業はいまも進行中であることが示されるけど、それだって遠いヨーロッパの話でしょ、と。しかし、こうした美術と政治の話を他人事のように受け止めるのは、正直おめでたいとしか言いようがない。

映画中、ナチスが理想とした美術作品を取り上げた「大ドイツ芸術展」では、田舎の風景や農民たち、母子を描いた作品が多く展示されたことが解説される。去年の冬にBunkamuraで開催されていた「ロマンティック・ロシア展」のことを思い出してほしい。展示作品に似たものを感じないだろうか。

上に権力表象の一形態として美術を所有することがあると書いたけども、バンクシー(?)のネズミ絵を都が展示するとはどういうことなのか、立ち止まって考えてみてほしい。誰が描いたのかは分からないし、落書きなので押収とは言えないかもしれないけれど、本来の所有者/作者の意図しない形で政治利用されているところは同じだ。

おりしも現政権が天野喜孝と組んで新ウェブサイトを立ち上げたところ。美術と政治がどのように絡み合ってきたか知るには、うってつけのタイミングなのではないだろうか。

いっしょに観たい関連映画

ナチスの芸術政策、ひいては美術と政治をテーマにした映画は『ヒトラーvsピカソ』だけではない。この機会にいろいろ観てみよう。

カーティス監督『黄金のアデーレ──名画の帰還』(2015年・英米合作)

ナチスに押収されたクリムトの絵画《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像Ⅰ》の所有権をめぐり、国を提訴した女性の奮闘を描く。とてもよい映画。同作品は現在ニューヨークのノイエ・ギャラリーにあるよ。

ソクーロフ監督『フランコフォニア──ルーヴルの記憶』(2015年・英仏蘭合作)

歴史に翻弄されてきたルーヴル美術館の所蔵品の記憶を幻想的にたどる。フランスの美術管理を任されたナチス高官メッテルニヒと、作品を疎開させようとした当時のルーヴル館長ジョジャールのやりとりが取り上げられているよ。とてもよい映画。

クルーニー監督『ミケランジェロ・プロジェクト』(2014年・米)

第二次大戦時、ヨーロッパの美術作品をナチスの手から守るため、ルーズベルト大統領の命で組織された「モニュメンツ・メン」の活躍を描く。実は未見。『ヒトラーvsピカソ』では、モニュメンツ・メンが集めた情報をもとに爆撃する場所を決めてたって言ってたね。

ワイダ監督『残像』(2016年・ポーランド)

これはナチスの話ではなくて、社会主義政権下のポーランドが舞台。全体主義による圧政のもと、抵抗もむなしく迫害され潰されてゆく芸術家の姿を描く。強い政治権力に抗ったらどうなってしまうのか、容赦なく救われない物語。

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