映画『アメリカン・アニマルズ』を観た。最高。
物語は実際に起こった事件に取材していて、事件の当事者も登場する半分ドキュメンタリー・半分フィクションなのだが、退屈な日々を持て余す大学生たちの青春映画かと思えば、打って変わって痛快犯罪ものへとすり替わり、終盤は彼らの心情に迫るサイコスリラーの趣きを見せる。最高。こういうジャンルに縛られない、既成概念の枠外にある創作物が大好き。
逆に言うと簡単に分類されるものはどちらかというと苦手だ。というか、分類すること自体にある種の嫌悪を感じる。
とはいえ美術史なんていう学問に携わっているので、作品を分析してあるカテゴリーに分類する作業からは逃れられない。これは古典主義、これはマニエリスム、これはレオナルド派。でもやっぱり面白いと感じるのはそうした分類をすり抜ける、カテゴリーの「隙間」にあるような作品なのだ。ネーデルラントの画家なのに作品はイタリア風とか、あるいは、絵画なのに一部立体になっているとか、建築に見立てられた書物とか。
とくに創作物中の登場人物に関連づけられる「属性」にはひときわ嫌気がさしている。美少女、ギャル、ヤンキー、DQN、お嬢様、オタク、とかとか。べつにそういうキャラクターがいることは気にならないんだけど、その一言だけでせっかくの大事なキャラを説明させていいのかともったいなく感じてしまう。
最近あまり見なくなったけど、ツイッターで漫画を投稿している人が、「ギャルとお嬢様が仲良くなる漫画」みたいな説明つけてるのもモヤリとしていた。そんなに魅力的なキャラを、「ギャル」というたった3文字であらわしてしまっていいの? いや本人的にはいいのかもしれんが…。あと『女王陛下のお気に入り』を「クレイジーサイコ百合」と説明している人が多いのもビックリしてしまった。この映画に登場する女性たちの鬼気迫る関係性は、もっとことばを割いて表現してほしかったナ〜(文字制限が厳しいツイッターで感想を漁るのが悪い)。
思えば、分類することに疑問を持ち始めたのは、まだ京都にいた頃、韓国の劇作家ユン・ハンソル氏の作品『国家』の制作に関わったときだったように思う。わたしはユンさんと役者さんのあいだのコミュニケーションを補助する通訳としてこれに携わった。
制作の現場で、ユンさんは役者さんたちそれぞれの個人的な話を聞き出していた。子供の頃の思い出、いちばん好きな本、いま抱えている悩み、などなど。こうしたディスカッションで出た話題をもとに、本番のパフォーマンスでは彼らそれぞれがみずからの人生を語る。しかし役者さんたちはそれを同時に語り、音声としてはざわざわとしたしゃべり声の集積になってしまうので、聞いている観客は最初彼らの話を聞き分けて理解することができない。彼らが別々に語り始めて、はじめて観客は声のかたまりからそれぞれの物語を取り出して、それらが唯一無二のものであると認識できるのだ。
わたしたちは皆、別様の人生を歩んでいる。学校も仕事も恋愛も結婚も生き方も死に方も、一人ひとりがユニークな存在だ。しかし、国は「国民のスタンダードな人生の歩み方」を設定し、それに沿って社会システムを構築する。それはつまり、人をある種のカテゴリーに分類してしまうことにほかならない。
たとえば14歳の女の子なら、お父さんとお母さんがいる家から毎日中学校に通っていて、クラスの男の子が気になりつつ、高校受験について悩み始めてるって具合でしょ、というような。しかし当然ながら、その内実は必ずしもそうではない。両親が離婚してて家にいるのはお父さんだけとか、エスカレーター校だから高校受験は心配ないとか。その程度ならいいのだけど、家庭が上手くいってなくて学校に全然行ってないとか、同性愛者で男の子には興味がないとか、ちょっと込み入ってくると、システムに組み入れられないということがある。要は国から無視される。そうした一般的な分類からはみ出す部分は、なかったことにされる。
劇作品『国家』がテーマにしていたのは、およそこのようなことだった。国のシステムとは、人の個々の事情を切り捨てて、ある一つのタイプに押し込めるものだ、と。それが作品によってちゃんと表現として昇華されていたかどうかはちょっと疑問の余地がある(もっと時間をかけられたらよりよかったと思う)。でも、本番後にエゴサして「自分語りばっかり」というような感想を目にしたときは落胆してしまった。カテゴリーからはみ出す部分は、所詮「自分語り」なのか。
話がとっ散らかってしまったけど、一見なんなのか分からないもの、既存のカテゴリーに当てはまらないもの、スタンダードからはみ出すもの、そういったものを無理やり分類して安心するのではなく、そのまま受け入れる。そういうことを心がけていきたいなぁ、少しずつでも。